【あの時何が 被災地障害者センター編⑪】地域とのつながり 相互理解が基盤に

熊本日日新聞 2018年4月23日 00:00
修理中の自宅で、被災当時の様子を振り返る母(左)と女性=15日、益城町
修理中の自宅で、被災当時の様子を振り返る母(左)と女性=15日、益城町

 熊本地震が起きて9カ月が過ぎた2017年1月末、被災地障害者センターくまもとは、熊本市東区長嶺西から益城町寺迫に拠点を移した。寺迫は地震で深刻な被害が生じた地区で、倒壊した木山神宮のそば。事務局長の東俊裕(65)の知人宅も全壊し、更地になった跡地の提供を受けた。据えられたプレハブは「障害者がともに暮らせる地域創生館」と名付けられた。

 館内には、車椅子で生活する人も使える風呂を備えている。同町上陳の自宅で被災した女性(17)も利用者の一人だ。

 女性の5人家族は、町西部にあるバリアフリー型仮設団地(6戸)ではなく、熊本空港近くのテクノ仮設団地に身を寄せている。手狭で車椅子での生活は不便だが、この団地には地元の津森校区の住民も多い。「便利であっても障害者だけ切り離された所で暮らすより、地元の人たちと一緒にいたい。心のつながりが娘や私たちにとって何より重要だから」。母(45)に迷いはない。

 「大丈夫だったね」-。16年4月16日の本震で自宅は全壊し、断層帯の真上にあった敷地に1メートルもの段差が生じた。そんな一家を支えたのは地域の住民らだ。自家用車が段差に阻まれ、生活に欠かせない車椅子を運び出してくれたのは地元の消防団だった。避難先では津森校区の人たちが、車椅子が通るスペースを確保してくれた。5月初めに移った地元公民館での避難生活でも、「女性が過ごしやすいように」と出入り口に近い部屋を周囲が勧めてくれた。

 女性は現在、松橋支援学校高等部(宇城市)に通学しているが、中学までは地元の学校に通った。子どもも保護者らも「娘を特別視せず、自然と受け入れてくれていた」。だからこそ、母は「あんなに大きな地震があっても地域の理解に救われた」と振り返る。

 そうした「地域共生」の姿は、障害者の就労継続支援事業所「豆富[とうふ]工房ゴー・スロー」(熊本市中央区)でも見られた。「支援を受ける側」にとどまらず、施設長の篠原憲一(46)は自ら動いた。地元の帯山校区の自治会長らと連携し、全国から事業所に寄せられた支援物資を住民らの避難先に届けた。その基盤には、地域の子どもたちと交流したり、事業所を地域活動の場として提供したりするなど、互いを理解し合う関係があったからだ。

 さらに、篠原は「自宅から避難できず困っている老老介護の世帯があるかもしれない」と民生委員らに調査を提案。確認すると実際、取り残された高齢世帯があり、その後の支援につながっていった。

 地震から2年。全壊判定だった橋村家の自宅は修理が進んでいる。原則2年の仮設住宅の入居期限となる今年7月までには、家族そろって地元に戻る予定だ。=文中敬称略(小多崇)

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