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「ライオン逃げた」熊本地震のデマ 熊本市動植物園あの時 国内初の猛獣県外避難、余震に脅えた動物たち

熊本日日新聞 2022年8月16日 10:22
2015年12月、熊本市動植物園に来園したばかりの雄ライオン「サン」。この4カ月後に起きた熊本地震で「デマ」騒動に巻き込まれた(横井誠)
2015年12月、熊本市動植物園に来園したばかりの雄ライオン「サン」。この4カ月後に起きた熊本地震で「デマ」騒動に巻き込まれた(横井誠)

 2016年4月14日と16日、観測史上初めて続けざまに最大震度7が2度襲った熊本地震から6年がたちました。激しく被災した熊本市動植物園(同市東区)は長期休園を余儀なくされ、心無いデマにも翻弄されました。「あの時何が」。記憶の風化も懸念される中、園内で人知れず繰り広げられたスタッフと動物たちのドラマを振り返りました。※この記事は2016年12月の連載を再構成したものです。(肩書や年齢は掲載時、文中敬称略)

地震で壊れた熊本市動植物園のシマウマ舎の塀=2016年5月4日(横井誠)
地震で壊れた熊本市動植物園のシマウマ舎の塀=2016年5月4日(横井誠)
地面がひび割れたり、獣舎が壊れるなど、熊本地震で大きな被害を受けた熊本市動植物園=2016年9月(松本敦)
地面がひび割れたり、獣舎が壊れるなど、熊本地震で大きな被害を受けた熊本市動植物園=2016年9月(松本敦)

 「きょうはミルクを飲むペースが随分ゆっくりだな」。4月14日夜、熊本市動植物園の獣医師松本充史(44)は園内の飼育管理センターで、生後2週間のミミナガヤギにほ乳びんでミルクを与えていた。時計は午後9時を回り、帰宅が遅くなるのを覚悟していた。

 長い耳を垂らし、黒っぽく小さな体が愛らしい。「フェリックス」と名付けられた雄の赤ちゃんは未熟児で生まれ、ようやく自力で立ち上がるようになったばかり。獣医師が交代で人工保育を続け、松本がこの日の当番だった。

 「バタン」。他に誰もいないはずの室内に、背後のドアが閉まる音が響いた。不思議に思い振り返った瞬間、身動きすらできない激震に襲われた。とっさにフェリックスを抱きしめた。携帯電話が不快な警報音を発する。午後9時26分、熊本地震の前震だった。

 停電はない。室外へ飛び出し、大きな余震でしゃがみ込む。階段を駆け降り、1階診察室のドアを開けると、白煙があふれ出した。「爆発する?」。後に手術用窒素ガスが漏れたと分かったが、その時は命の危険すら感じた。意を決して、煙の中を駆け抜けた。

 ドアを開けると正門前広場。ほの暗い街灯が照らす風景は一変していた。地面から水が噴き出し、まるで川のように足元を流れる。異常発生を示す赤と青のパトランプが、あちこちで不気味に光る。

 園には松本以外に2人の職員が残っていた。いずれも総務班の主任主事で、管理事務所2階で残業していた渡邉優(33)と兼坂明宏(41)だ。地震で事務所内の棚が倒れたが何とか無事。そろって屋外に出ると、約60メートル離れた動物管理センターから走ってきた松本と鉢合わせした。松本はフェリックスを抱いたままだった。

 「猛獣を確認しなければ」。3人の思いは同じだった。だが、渡邉は4月に上下水道局から異動したばかり。動物の飼育には携わらない事務職で、2年目の兼坂も同じだ。そこに駆け付けた女性職員2人が合流。兼坂を事務所に残し、4人で猛獣舎へ急いだ。

吸い込まれそうな美しい瞳のアムールトラの「チャチャ」=2015年11月、熊本市動植物園(横井誠)
吸い込まれそうな美しい瞳のアムールトラの「チャチャ」=2015年11月、熊本市動植物園(横井誠)
熊本市動植物園の猛獣舎は、壁がひび割れ、飼育員の作業スペースのおりにすきまが開いた=2016年4月15日(同園提供)
熊本市動植物園の猛獣舎は、壁がひび割れ、飼育員の作業スペースのおりにすきまが開いた=2016年4月15日(同園提供)

 ■猛獣舎へ「ほうき持っていった方がいいかな」

 夜の園内には、不気味な静けさが漂っていた。聞こえるのは地面から噴き上げる水の音や、遠くの鳥の鳴き声。動物に慣れた松本に比べ、渡邉の不安は大きかった。手には懐中電灯だけ。もし猛獣が逃げ出していたら…。

 目の前に、竹ぼうきが立て掛けてあった。「このほうきでも持っていった方がいいかな」。振り返ると笑い話だが、その時の渡邉は真剣そのものだった。

 懐中電灯を頼りに、アムールトラなど4種5頭がいる猛獣舎へと急いだ。猛獣舎は1969年の開園当時のままで、園内で最も古い施設の一つ。それでも造りは頑強だ。中でも動物たちが夜を過ごす寝室は分厚い鉄筋コンクリートで覆われ、窓には小指ほどの太さの鉄柵が張り巡らされている。

 「逃げていないはずだ」。松本は信じていた。ただ、周辺の地面は液状化で波打ち、地割れが走り、歩みを進めるのも苦労するほど。二重になっている作業場のおりに隙間が開いているのにはぎくりとしたが、寝室のおり付き窓やコンクリート壁などに目立った損傷はない。

 慎重に近づき、寝室の窓から懐中電灯で中を照らすと、メスのアムールトラ「チャチャ」の二つの目がキラリと光った。落ち着かない様子を見て、「大丈夫だぞ」と声を掛けた。ライオン1頭、ユキヒョウ1頭、ウンピョウ2頭もいた。信じていたとはいえ、寝室の中にいる猛獣たちに正直、胸をなで下ろした。

 4人は隣接するクマ舎の寝室でも4種5頭を確認し、管理事務所に戻った。園内で飼育する約120種800頭の動物を確認するため、約24ヘクタールの園内に職員が散った。 確認できた動物の飼育舎に電気を付けるよう取り決めた。暗闇が広がる園内に、明かりが一つ、また一つともっていった。「動物は全て無事です」。副園長の藤本修三(58)が、出張先にいた園長の岡崎伸一(57)に電話で報告したのは午後10時9分。前震発生から43分後だった。

ツイッターに投稿された路上に立つライオンのデマの画像(熊本県警提供)
ツイッターに投稿された路上に立つライオンのデマの画像(熊本県警提供)

 ■「逃げてません」「逃げてません」繰り返す

 ちょうどその頃、ゾウ舎前にいた主任主事渡邉優(33)の携帯電話が鳴った。管理事務所にいた同じ主任主事の兼坂明宏(41)からだった。

 「ライオン逃げ出してないよね。問い合わせの電話が殺到して一人じゃ対応できないんだ」。兼坂の声は緊迫していた。それでもまさかインターネット上に「ライオンが逃げ出した」という悪質なデマが駆け巡っているとは、想像もできなかった。

 「おいふざけんな、地震のせいでうちの近くの動物園からライオンが放たれたんだが 熊本」

 4月14日午後9時52分、短文投稿サイト・ツイッターに、ライオンが路上に立つ画像を添付したデマが投稿された。瞬く間に拡散し、リツイート(転載)は1時間で2万件を超えた。

 「ライオン逃げたって本当ですか?」。投稿から間もない午後10時すぎ、熊本市動植物園の管理事務所に入った電話に、主任主事の兼坂明宏(41)は首をかしげた。そんなことがあれば、確認に走った同僚たちから報告があるはずだ。「逃げてないと思いますけど」。少し歯切れの悪い返答になってしまい、電話を保留にして、すぐに同僚に確認。電話先の相手に向かって声を大にした。「やっぱり逃げてません」

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