【あの時何が 熊本市動植物園編②】猛獣舎確認「もし逃げ出していたら…」
「きょうはミルクを飲むペースが随分ゆっくりだな」。4月14日夜、熊本市動植物園の獣医師松本充史(44)は園内の飼育管理センターで、生後2週間のミミナガヤギにほ乳びんでミルクを与えていた。時計は午後9時を回り、帰宅が遅くなるのを覚悟していた。
長い耳を垂らし、黒っぽく小さな体が愛らしい。「フェリックス」と名付けられた雄の赤ちゃんは未熟児で生まれ、ようやく自力で立ち上がるようになったばかり。獣医師が交代で人工保育を続け、松本がこの日の当番だった。
「バタン」。他に誰もいないはずの室内に、背後のドアが閉まる音が響いた。不思議に思い振り返った瞬間、身動きすらできない激震に襲われた。とっさにフェリックスを抱きしめた。携帯電話が不快な警報音を発する。9時26分、熊本地震の前震だった。
停電はない。室外へ飛び出し、大きな余震でしゃがみ込む。階段を駆け降り、1階診察室のドアを開けると、白煙があふれ出した。「爆発する?」。後に手術用窒素ガスが漏れたと分かったが、その時は命の危険すら感じた。意を決して、煙の中を駆け抜けた。
ドアを開けると正門前広場。ほの暗い街灯が照らす風景は一変していた。地面から水が噴き出し、まるで川のように足元を流れる。異常発生を示す赤と青のパトランプが、あちこちで不気味に光る。
園には松本以外に2人の職員が残っていた。いずれも総務班の主任主事で、管理事務所2階で残業していた渡邉優(33)と兼坂明宏(41)だ。地震で事務所内の棚が倒れたが何とか無事。そろって屋外に出ると、約60メートル離れた動物管理センターから走ってきた松本と鉢合わせした。松本はフェリックスを抱いたままだった。
「猛獣を確認しなければ」。3人の思いは同じだった。だが、渡邉は4月に上下水道局から異動したばかり。動物の飼育には携わらない事務職で、2年目の兼坂も同じだ。そこに駆け付けた女性職員2人が合流。兼坂を事務所に残し、4人で猛獣舎へ急いだ。
夜の園内には、不気味な静けさが漂っていた。聞こえるのは地面から噴き上げる水の音や、遠くの鳥の鳴き声。動物に慣れた松本に比べ、渡邉の不安は大きかった。手には懐中電灯だけ。もし猛獣が逃げ出していたら…。
目の前に、竹ぼうきが立て掛けてあった。「このほうきでも持っていった方がいいかな」。振り返ると笑い話だが、その時の渡邉は真剣そのものだった。(岩下勉)=文中敬称略
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