【あの時何が 県災害対策本部編⑫】親心が引き寄せた“再会” 問われる対応

熊本日日新聞 | 2017年8月9日 00:00

大和晃さんの遺体を収容し飛び去る県防災消防ヘリと、それを見送る捜索隊員たち=2016年8月11日、南阿蘇村

 熊本地震の犠牲者捜索が進み、残る唯一の行方不明者となった熊本学園大4年、大和晃[ひかる](22)の捜索中断から1カ月。県災害対策本部(災対本部)は昨年6月1日、両親の卓也(59)と忍(50)の要望もあり、「梅雨入り前にもう一度捜索しよう」と、県警、消防の約120人を投じて捜索を再開した。

 場所は、黒川と白川の合流点付近から下流4キロの範囲。ただ、山腹崩壊現場の直下の黒川が流れる谷底ではなかった。それでも卓也らは祈るような思いで捜索を見守った。

 しかし、手掛かりはつかめなかった。「自分たちで捜すしかない」。7月24日、卓也と忍は、窮状を知って協力した登山愛好家らと災対本部の捜索の手が及んでいない崩壊現場の直下に足を踏み入れた。そこで巨岩の下敷きになった黄色の車体を発見。親心が“再会”を引き寄せた。

 災対本部は4月14日の設置から3カ月余りが過ぎていた。県地域防災計画は、本部解散について「災害発生・拡大の恐れがなく、応急対策がおおむね完了したと認めたときに本部長が決定する」と規定。本部内では「梅雨が明けたら解散を検討しよう」との声も出ていた。そこに飛び込んできた発見の知らせ。事態は急展開した。

 災対本部は「放電破砕工法」という特殊技術を持つ大阪市の会社に、車体を押しつぶしていた巨岩を砕く作業を依頼。8月11日、晃の遺体を収容した。

 「場所が特定できないままで、捜索隊を長時間危険にさらす判断はできなかった」。県危機管理監、本田圭(59)ら県幹部は当時を振り返る。

 忍は「二次災害の危険を言われると、二の句が継げなかった」。頭では理解しても、一日も早く助けたいという気持ちを抑えきれなかった。そんな自分たちの気持ちに「向き合ってくれなかった」。家族と災対本部の間に生じた“溝”は今も埋まっていない。

 無言の帰宅からやがて1年。まだ納骨していない。土砂の中に4カ月近く埋まっていたことを思うと、卓也は「まだ晃から離れたくない」と話す。

 災対本部は最後の行方不明者だった晃の捜索を終え、8月30日に解散。前震が発生した4月14日の設置から139日目だった。余震も減り、災対本部内で異論は出なかった。

 被災地は現在、施設の復旧・復興や被災者の生活再建が進む。一方で、関連死や孤独死で今も命が失われ、直接死の50人と合わせ約250人に上る。

 知事、蒲島郁夫(70)は今年4月14日、県庁で営まれた犠牲者追悼式でこう述べた。「犠牲者一人一人に愛する家族があり、夢があり、幸せな暮らしがあった。亡くなった方の遺志を受け継ぎ、残された家族を守るため、災害に万全の備えを築いていく」

 失われた命に何を学び取るのか。防げる死はなかったのか。熊本地震は、災害対応の在り方を問いかけている。(並松昭光)=文中敬称略、肩書は当時

 *県災害対策本部編は終了。次は「JVOAD・火の国会議編」です。

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