討ち入り意識し泉岳寺近くに事務所 佳代子さん任せの自身の選挙 「この指とまれ」方式の連立政権樹立 知事時代から取り組んだ水俣病問題 新党ブームから首相就任まで <細川護熙さんのあのころ>

熊本日日新聞 | 2023年9月22日 05:00

1993年8月9日、細川内閣が発足し、閣僚らと記念写真に納まる細川護熙首相(前列左から3人目)=首相官邸

(聞き手・宮下和也)

 -日本新党の党本部が置かれたのは。

 高輪です(東京都港区)。それも、これから「討ち入り」するんだから高輪だって決めたんですよ。赤穂浪士で行かなきゃならんって、泉岳寺のほんとに近くでした。

 -いまお話を伺っているこのアトリエに大きな書が掲げられています。党本部にあったものだとか。

 ちょうどここの広さくらいだったかな、大きな部屋があってね。みんなで総会を開く部屋でした。正面に大きな壁があって、何かあった方がいいなと思って書いたんですよ。私の書道の先生の県庁OB・田内基義先生に手本を書いていただいて、汗だくでこれを書きました。スティーブン・スペンダーっていう英国の詩人の詩ですけど。旗揚げの時にふさわしい詩だと思って。

 真に偉大だった人々のことを私はいつも考える
 生命のために生命をかけて闘った人びとの名前を
 心の底に熱情の炎を燃やしていた人々の名前を考える
 太陽から生れた彼らは太陽に向ってしばらく旅し
 そのあとに彼らの名誉を示すいきいきとした風を残した

(訳文はA・M・シュレジンガー著、中屋健一訳『ケネディ 栄光と苦悩の一千日』による)

新党ブームの中、全国を駆け巡った選挙戦

 -日本新党は1992(平成4)年5月の旗揚げから、7月に参院選で4議席、翌年春の東京都議選で20議席を得ました。

 全国をかなり回りました。その頃は携帯電話がまだできたばかりで、パソコンのもっとでかいようなものを持ち歩いて「はいどうぞ」と話す、そんな時代でした。

 だけどヘリなんかに乗ったら全然聞こえない。選挙中はヘリにも随分乗ったし、電車と自動車を乗り継いで、夜を徹して3県くらいまたいで行ったり、1日で九州を全部回ったり、そういうことをやっていました。

 -手応えは。

 参院選の次は都議選、それから衆議院の選挙になっていくわけですけど、それはもう進むにつれて、行けばどこでも人が集まっちゃってどうしようもない。300人くらいまでのところは止まっている暇がない。そこは申し訳ないが飛び越して行け、とそういう感じでしたから、そんな選挙珍しいんじゃないでしょうか。

日本新党などの宣伝カーを囲み、最後の街頭演説を聞く大勢の人たち=1993(平成5)年7月17日午後7時15分、新宿駅東口

 もう大都市を攻略しなくちゃと思うから、300人くらいのところは「ごめんなさーい」って手を挙げていくだけで走り去る、そんな感じでした。阿蘇でおばあさんと猫を相手にしていた時代からすると、ほんとにぜいたくな選挙ですよ。しかし両方経験しないといかんですね、おばあさんと猫だけのところも回らないと。

 -当時の政界は政治改革が大きなテーマでした。リクルート事件や金丸事件など政治とカネに絡む問題が続き、国民の政治不信は頂点に達していた。宮沢喜一内閣の不信任決議案が、自民党の小沢一郎さんたちの造反もあって可決されて、解散総選挙へなだれ込みます。

 宮沢さんは何か失言したんでしたっけ。

 -テレビ番組で政治改革法案の成立を確約したのに、できなかったことが「うそつき」と批判されました。

 宮沢さんなんか、失言されるような方じゃないんだけど。予算委員会なんかで毎日攻められてるとね、やっぱりやれなかったら辞任しますというくらいのことは言わないと収まらなかったんじゃないでしょうか。失言と言っちゃあちょっとお気の毒かもしれない。

 私も失言は…そんなにしたことはないけど1回は、国民福祉税の時の「腰だめ発言」ね。私としたことが、あれはまずかったと思いましたね。あれもほんとに、繰り返し大蔵省から3%、4%、5%、6%…いろんな数字を聞かされていましたからね。だから役所もほんといい加減だなと思っていたんですよね。それで思わず本音が出ちゃったんで、まずかった。本当に失言でしたね。

相続した軽井沢の土地を担保に10億円近い借金

 -この時の総選挙ですが、受け止めとしては急に解散が来たという感じだったのですか。

 いずれ近いうちに選挙があるだろうとは思っていました。ただ選挙は全国を駆け回るのも大変でしたけども、資金集めが大変でしてね。そりゃあもう、いきなり全部やらなくちゃならなくなったんだから。

 私はお話ししたように経済界にすがるというのは嫌だという思いが強くありました。ちょうど、祖父からの相続で軽井沢の土地1千坪を私が相続したんですね。それを全部担保に出してお金を借りたんですよ。7~8億借りたのかな。とにかく10億近くだったと思います。それを全部はたいちゃいましたけど。

 -それが日本新党の活動資金になった。

 はい。

 -足りましたか。

 足りたというか足りなかったというか、それで賄うしかなかったんですよね。だから10億で天下を取ったといえば天下を取ったんです。ほかからはもらいませんでしたから。自民党なんか、「日本新党なんかにカネを出したら承知しないぞ」って、経済界ににらみを利かせているような状態で。

 -運動資金としてお金はやっぱり必要なんですね。

 そりゃ必要ですね。だって候補の経歴から言って、前議員は一人もいないんですから。みんな学者やっていたり、研究者やっていたり、カネの面では頼りない連中ばっかりです。結局、車代から選挙事務所の確保から何からいろんなことをしてやらなくちゃならなくて、まあ大変でした。

日本新党の細川護熙代表当確のニュースで、選挙ポスターにリボンを付ける佳代子夫人=1993(平成5)年7月18日午後7時38分、熊本市南熊本の日本新党熊本支部

 -衆院選で細川さんは当時の熊本1区から立候補しました。21万票余りを集める圧倒的なトップ当選でしたが、選挙期間中に地元にいる暇はなく、熊本の選挙はほぼ佳代子さんが。

 あの時は1回くらい行ったのかな。下通かどこかで1回しゃべったかもしれません。私が行かなかったから票が入ったんじゃないですか。

 衆院選は参院選に比べて、さらに盛り上がりましたね。大阪なんかも2回くらい入りましたけど、すごかったですね。地元の新聞の人も初めてだと言っていました。道路に陸橋が架かっている何カ所か、橋が折れるんじゃないかってほどの人でした。

 -もっと候補を幅広く出しておけば当選者が増えたかも。

 そうですね。問題はお金が続かなかった。このくらいで限度いっぱい。それでも大変でしたから。

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