「ひとは愛する人からのみ学ぶことができる」 京都で出会った人生の師 真の人間性を獲得するための教育とは <細川護熙さんエッセー>
高校、大学時代には、東京の祖父の家から通学していたのですが、休みといえばほとんど京都にいるようになりました。
比叡山の横川[よかわ]に通い、修行中のお坊さんがひとりいるだけの宿坊に泊めていただいて座禅の真似事をしたり、リュック一杯つめていった本を読んで幾日も過ごしたり。当時はいまのように整備された道路も麓の坂本から通じておらず、人里離れた山の中で、根本中堂からの尾根づたいの道では、猿やイノシシにもよく出くわしました。宿坊から少し歩くと、木立の間から琵琶湖が望める。多感な青年時代の懐かしい思い出です。
読書傾向も、歴史読み物から、思想的なものへと移行し、徒然草や方丈記をはじめ、論語や老子、正法眼蔵随聞記や禅関係のもの、歎異抄、出家とその弟子、良寛関係のもの、名将言行録、西郷南洲遺訓、代表的日本人、漱石のものなど─雑多に挙げましたが、そういうものを手にするようになりました。
私がその頃京都に惹[ひ]きつけられた理由は、人生の素晴らしい師にめぐり会えたからです。それは京都大学の教授をしておられた足利惇氏[あしかがあつうじ]先生で、なんでも先生は足利尊氏の末裔[まつえい]だということで、当時、奥様と二人で南禅寺の祖父の家の離れに間借りをしておられました。サンスクリット(梵[ぼん]文字)、東南アジア史がご専門で、その後、京大文学部長を経て東海大学の学長に就かれた方です。
仏教哲学に造詣が深く、歴史観にも惹かれるものがあったので、私は時間をつくっては京都へ行き、先生の所に入り浸るようになりました。ギボンのローマ帝国衰亡史、マコーリーの英国史、司馬遷の史記…こうしたものを読んでみるといいと勧めてくださったのも足利先生でした。
先生が語られる歴史観、世界観、とりわけ日本とアジア全体の歴史的なつながりについての観点には私は大いに感化を受け、熱心にメモを取りながらお話を拝聴しました。
足利先生には大学卒業するまでずっと御指導をいただきましたが、それは父が京都大学の学生時代、西田幾太郎先生の御自宅で薫陶を受けたと同じように、学校で習う勉強よりも足利先生のお宅の居間でのゼミナールの方が、私にとってははるかに実のある学問になると思ったからです。先生の教えはいまでも私の知識や考え方の大きなベースになっています。
考えてみれば、お釈迦様でも、イエス・キリストでも、マホメッドでも、あるいは吉田松陰の松下村塾や広瀬淡窓の咸宜園[かんぎえん]でも、本当の教育がなされたところでは、師の教えを受けるのはせいぜい十数人程度のものでした。いまの大学みたいに百人、二百人と詰め込んだ大教室で、マイクを通して、教師の顔もよく見えない状況というのはたいへん気の毒なことだと思います。世界一といわれるオックスフォード大学では、いまも伝統的にマンツーマンの教育が行われているといいますが、膝つきあわせての濃密な師弟関係の中で、はじめて真の意味での上質な感化が行われるわけで、ゲーテが「ひとは愛する人からのみ学ぶことができる」といったのもそういうことでしょう。尊敬し、学ぶことを請うことを悦[よろこ]びとするところから、学習することの真の意欲が湧いてくるのだと思います。
その点で江戸時代の日本の教育システムというものを、私はたいへん高く評価しています。
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