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人生を悔いなく、充実した「いま」を 人間五十年 滅せぬ者のあるべきか <細川護熙さんエッセー>
徒然草は古来多くの文人が座右においた古典のひとつですが、吉田兼好はその中で、死というものはいつやってくるかわからない。人間にとっていちばんの幸せとは、財産でも、名声でも、地位でもなく、死の免れがたいことを自覚して、愉[たの]しみながら、充実した「いま」を生きることだといっています。
毎日予定に追われて忙しく走りまわっていては、確かに心の充足など得られるはずがありません。できるだけ俗事と距離を置き、心を安らかに保つ。その「心身永閑」こそ、充実した人生を生きることにつながるのだというのです。
徒然草に共鳴するところはいくつもありますが、例えばこんなくだりがあります。
人間の儀式、いずれの事か去り難からぬ。世俗のもだしがたきに随ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇[いとま]もなく、一生は、雑事[ざつじ]の小節にさへられて、空しく暮れなむ。日暮れ、塗[みち]遠し。吾が生既に蹉蛇[さだ]たり。諸縁を放下[ほうげ]すべき時なり。(第112段)
確かに世間とのつきあいなどというものは、なかなかどれといって捨てきれないもので、気を遣って務めようとすると、雑事に振り回されて空しく日々が過ぎてしまう。残りの人生も余すところいくらもあるわけではない。これから先はもう自分自身の魂の平安のためだけに生きていきたい、ということです。大いに共感するところで、私も「諸縁放下」「諸縁放下」としょっちゅう呪文のように唱えて、極力人づきあいなどを減らすように努めています。
ところで中学生時代、学校の勉強はしないで、講談本や歴史小説、伝記物などの本を読んでばかりの私に大きな感化を与えていただいたのは、木曽秀観先生という老英文学者でした。先生は清泉女子大で英文学を教えておられて、父が忙しくて子どもたちに目が行き届かないことを案じて、お目付け役も兼ねてお願いしていたのだろうと思います。鎌倉の我が家の小さな離れに奥さんともども借家住まいしておられました。
私は学校から帰ると、毎日相当な時間をこの老先生宅に転がりこんで過ごしました。ステテコ1枚の姿で、蚊帳の中でごろりとしておられるところにもぐりこんで、寝物語を聞くようにいろいろ話を伺ったものです。
学校の成績がいいとか、悪いとか、そんなことはつまらんことだ。いい大学に入ろうが、いい会社に入ろうが、それも大したことではない。人間なんてこの広大無辺の宇宙、悠久の時の流れからすれば、とるに足らんものだということを、例えば「人間はみんな所詮ウンチ袋にすぎないのだから」といったように語られる。のちになって「荘子」に「道は糞小便の中にもある」という言葉を見つけたとき、「ああ、木曽先生はこのことをいわれていたんだなぁと、はっとしました。これは子どもの私にもわかりやすく、すっと胸に入ってきました。私が学校で落第点ばかりもらってきても「それがどうした」と逆に私は鼓舞されたものです。
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