祖母亡きあと 桜守[さくらもり]に 庵を結んで人境に在り <細川護熙さんエッセー>
神奈川県の西南端に位置する湯河原町は、前に海、後ろに箱根の山を背負った温順な土地で、万葉集にも詠われている湯治場です。「吾妻鏡[あづまかがみ]」や「源平盛衰記[げんぺいじょうすいき]」にも「土肥[とひ]」という地名で登場するような古くから栄えていた町で、近代になってからも国木田独歩、与謝野鉄幹・晶子、画家の安井曽太郎、竹内栖凰など多くの文人墨客が好んで逗留[とうりゅう]したところです。
母方の祖父である近衛文麿も、温泉保養の目的でこの地に家を求めました。祖父は昭和二十年に没しましたが、そのあとも祖母、千代子が菜園を愉[たの]しみながら、亡くなる八十余歳までひとりで住みつづけていました。
これが、いま私が終[つい]の棲家[すみか]としている「不東庵」です。
三歳のときに母を亡くしていた私は、子どもの頃からこの湯河原の祖母を慕って、足繁く訪ねていました。
ここの庭に、樹齢二百数十年になる枝垂れ桜の老木があります。桜の中では最も長寿の種といわれるヒガンザクラで、薄紅色の花を咲き誇らせる姿は本当に見事なものです。祖父母が健在だった頃からこのあたりの名物桜といわれていたそうです。
この桜に、祖母はいつも「寒肥[かんごえ]」「お礼肥[れいごえ]」をしていました。本来、寒肥とは厳しい冬の季節を無事に越えられるようにと施す肥料、お礼肥とは花が咲いたあとに疲労した植物に養分を補給する肥料のことをいいますが、祖母はその代わりに、三方にお神酒を載せ、スルメなどを添え、紙垂[しで]をかけて、桜の樹の下にお供えしていました。桜の霊を供養、鎮魂するためで、私は寒肥、お礼肥というと、肥料のことよりもそのお供えのことをよく覚えています。
祖母の亡きあと、この桜を誰が面倒を見、守っていくのかと考えたとき、それは私の役目なのではないか、と自然にそう思うようになりました。そして、高校生になってからだったと思いますが、「ここの桜守[さくらもり]になりたい」と強く意識するようになったのです。
君が代の安けかりせば預[かね]てより
身は花守となりけむものを
幕末の志士、平野国臣にこういう歌がありますが、この「花守」という言葉に強く惹きつけられるものを感じました。
祖母が亡くなってから、この土地と家屋を私が譲り受けることになって、私はこの桜の花守人となりました。政治の世界に身を置いていた間も、時間を見つけてはこの家に足を運び、桜の老木を見上げ、幹に手を当てて老木と対話するのを愉しみにしてきました。
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