「住民戻る日きっと来る」 豪雨被災の集落、再生への挑戦

熊本日日新聞 | 2021年03月07日 18:00

 2020年7月の豪雨は、古里をのみ込み、多くの県民の生活を理不尽に奪い去った。「川と共に第7部 再生」では、甚大な被害を受けた球磨村神瀬地区に焦点を当て、集落再生を模索する地域の人々の姿や、自治体の動きをリポートする。(臼杵大介)

※2021年1月、熊日朝刊に掲載した連載「熊本豪雨 川と共に」第7部「再生 動きだした球磨村・神瀬」の記事をまとめました。記事中の情報は掲載時点、文中敬称略

帰れる場所、つくりたい 住民委員会、立ち上げ

 2020年の大みそか。球磨村神瀬の神照寺に、地域住民が集まって年越しそばを味わった。「大変な1年だったね」「来年は前に進まないと」。7月の豪雨で被災した神瀬地区。住民らはそばのように厄災が切れることを願い、思い思いに箸を進めた。

球磨村神瀬の神照寺で年越しそばを食べる住民ら。右は岩崎哲秀住職=2020年12月31日、同村(小野宏明)

 そばの提供を呼び掛けたのは、同寺住職の岩崎哲秀さん(47)。被災を機に発足した住民集会「こうのせ再生委員会」の発起人の1人だ。年末の26~31日は新たな気持ちで新年を迎えてもらおうと、本堂の鐘を地域に開放し、自由に突いてもらった。

 豪雨による球磨川の氾濫で、球磨村は全世帯の約3割が浸水。25人が犠牲になった。大動脈の国道219号や橋も崩落した。

 山と川に挟まれた村北部の神瀬も、濁流に襲われ、多くの民家が水没。電気や水道も断たれた。

 再生委によると、神瀬の中心部にある約140世帯のうち、今も地元にとどまるのは20~30世帯ほど。大半は古里を離れ、仮設住宅や親類宅での生活を余儀なくされている。

 岩崎さんは被災直後から支援物資の配布に奔走する一方、住民が散り散りになるのを目の当たりにし、危機感を抱いた。「みんなが帰れる場所をつくりたい」。地元の仲間に呼び掛けて立ち上げたのが再生委だ。

 8月末から毎週土曜日に集合。被災状況を聞き取り、連絡が取れない住民をリストアップした。水道の補修など自分たちでできる復旧作業も考え、取り組んだ。

 10月には、道路や公共施設の復旧など、神瀬の人々が一番望む声をまとめ、村が住民の意見を聞く「村づくり懇談会」の場で要望書として提出することができた。

 そうした意見は、村が本年度中に策定する復興計画に反映される。避難によって区長や班長が不在の地域もある中、再生委は意思決定機関の役割も果たしている。

神瀬の今後について語り合う「こうのせ再生委員会」。8月末から週1回、地元の集会施設で開いている=2020年11月7日、球磨村

「久しぶり」「元気にしとったね」。再生委は、離れ離れになった住民が再会を喜ぶ場でもある。地元の女性たちの炊き出しは場を和ませ、再生委が開かれる日は集落に笑い声が響き渡る。

 村内の仮設住宅から参加した假屋元[かりやもとし]さん(77)は「みんなの顔を見て元気が出た。早く元の家に帰りたい」、芦北町のみなし仮設住宅で暮らす川口梨奈さん(43)も「地域のつながりが強くなった。水害は悪いことばかりじゃなかった」と前を向き始めている。

 住民は戻るのか、古里を守れるのか-。正直、不安は尽きない。それでも岩崎さんは再生委が足掛かりになると信じる。「再会の場があれば、帰れるきっかけになる。住民がばらばらになるのを、少しでも食い止めたい」

避難、食料…支え合う 保育園で孤立3昼夜

 「こうのせほいくえん 120メイヒナン」

 昨年7月の豪雨直後、上空から撮影された白い文字は全国の注目を浴びた。真下にあった神瀬保育園(球磨村神瀬)では地域の孤立状態が解消されるまでの3昼夜、住民らが支え合いながら救助を待った。

 7月4日午前4時。大粒の雨がたたきつける中、消防団員として警戒していた建築板金業の上蔀[うわしとみ]忠成さん(47)は、自宅裏の集会施設に避難した住民に気付いた。

 山肌からも濁り水が流れ出し、神瀬の中心部は茶色に染まり始めていた。「ここは水に漬かる。危ない」。そう判断した上蔀さんは、集会施設の17人を自宅2階に避難させた。

神瀬保育園の園庭に書かれた「こうのせほいくえん 120メイヒナン」の文字=2020年7月5日、球磨村

 水は、さらに2階へ迫る。「これだけの命を預かっている。何とかしないと」。その時、30メートルほど離れた高台の保育園に、消防団員で村森林組合に勤める川口誠司さん(42)の姿が見えた。

 「ロープ!」。上蔀さんの叫び声に反応した川口さんは、近くの民家でロープを調達。上蔀さん方の車庫の屋根まで泳ぎ、ロープの端を渡した。

 保育園とロープでつながったものの、生後4カ月の赤ちゃんやお年寄りをどうやって避難させればいいのか…。ふと目に留まったのが、保育園の簡易プールだった。50キロ以上の重さでも水に浮いた。プールをボートの代わりにし、ロープ伝いにピストン輸送を始めた。

 「いちかばちか。それしか方法がなかった」と川口さん。17人を保育園に避難させると、物干しざおをオール代わりに使い、周囲の屋根や2階に取り残された住民を運んだ。17人を含む計45人を救助。神瀬の中心部で死者は出なかった。

上蔀忠成さん方の2階に避難した住民を保育園のプールで救助する消防団員ら=2020年7月4日(岩崎ちふみさん提供)

 保育園での3昼夜も、住民の連携プレーが生きた。

 身を寄せた住民は約80人。米など食料の備蓄はあったが、電気や水道が断たれた。携帯電話も通じにくく、情報が不足した。

 そうした中でも、住民らは避難直後から調理や清掃などの役割を分担。自宅が浸水しなかった住民は、缶詰やレトルト食品を持ち寄った。子どもたちも、近くの山の湧き水をバケツで運んだ。

 園庭のSOSは保育園職員の岩崎ちふみさん(43)の発案。何とか無事を伝えようと、5日朝に石灰のラインで書いた。隣の寺などの避難者も含めて「120メイ」だった。

 自衛隊が道を切り開き、神瀬の外に避難できたのは8日。それまでの間、新型コロナウイルスや他の感染症の恐怖などにさらされながらも、住民間のトラブルは起きなかった。誰もが笑顔を忘れなかったという。

 岩崎さんは振り返る。「みんな顔見知りだからこそ、助け合うことができた。神瀬の絆は強いんです」

戻りたいが…揺れる思い 水害の恐怖消えず

 昨年7月の豪雨で被災した球磨村神瀬の木屋角地区。上蔀[うわしとみ]行雄さん(79)が、当時2階まで浸水した自宅を見上げた。「ここまで水が上がったなんて…今でも考えられん」

 被災後は親類宅などを転々とした。10月からは人吉市に近い同村渡の仮設団地で妻カズエさん(77)、次男の忠成さん(47)と3人で暮らしている。

 建築板金業を営んできた上蔀さん。若い頃は毎晩のように、神瀬の消防団仲間と焼酎を酌み交わした。「酒が強い連中ばかり。あの頃は楽しかった」

被災した自宅を片付ける上蔀行雄さん。神瀬に戻るかどうか決めかねている=2020年11月11日、球磨村

 生まれ育った場所。住民との結び付きも深い。被災後は神瀬に何度も通い、自宅を片付けた。忠成さんも一緒に泥を取り除き、リフォームができる状態までに整えた。

 しかし、水害への恐怖は消えない。宅地のかさ上げなどが必要だと考えるが、行政の対応策は具体的に示されていない。膝も悪く、神瀬に戻る機会は少しずつ減ってきた。

 「戻れるなら戻りたいが…」。年金暮らしの上蔀さんに、自宅の再建費用は重い。最終的にどこで暮らすか。人吉市に実家があるカズエさんとの話し合いも、これからだ。

 村は昨年8~9月、15歳以上の村民3095人を対象にアンケートを実施した。「村に戻りたいか」との問いには、回答者1155人の9割近くが「戻りたい」と答えた。

 ただ、「戻りたい」のうち、約4割は高台への移転など条件付き。村に戻るまでに待てる期間も「1年以内」が最も多く、期間が長くなるほど待てると答えた人は少なかった。123人は「戻らない」と答えた。

 神瀬から、空き家になっていた八代市の親類宅に避難した岩本一徳さん(73)と豊子さん(71)夫妻も、村を離れることを決意。昨年の暮れ、人吉市の中心部に近い中古住宅を購入した。

 筋肉がこわばる持病を抱える岩本さん。かかりつけの病院が人吉市にあることが、古里を離れることを決意させた。神瀬からだと車で片道40分。「70歳を過ぎ、いつまで運転できるか分からない。人吉ならば買い物も便利になる」

 豊子さんは、行政の治水策が示されない現状に不安を抱く。「宅地をかさ上げするにしても、何年先になるか分からない。早くついのすみかを見つけ、落ち着きたかった」

 夫妻には、割り切れなさも残る。岩本さんは神瀬出身。豊子さんも、同村一勝地から嫁いで半世紀近くを神瀬で暮らした。先祖が眠る墓もある。「神瀬を見捨てはしない」と、地元の住民集会「こうのせ再生委員会」にも顔を出している。

 仮設住宅の入居期間は原則2年。残るのか、離れるのか。村民の思いは揺れている。

炊き出しで住民に元気 仲間広がる女性グループ

 昨年11月、球磨村神瀬[こうのせ]で開かれた神瀬住吉神社の例大祭。山の幸や川の幸が彩りを添えた。郷土料理「つぼん汁」、ヤマメの唐揚げ、野菜のてんぷら…。地元の女性グループ「神瀬マダム」が炊き出しし、住民らに振る舞った。

 神瀬マダムは、昨年7月の豪雨をきっかけに誕生した。メンバーのほとんどが、60~70代の高齢者だ。

 地元の福祉センター「たかおと」で開かれていた高齢者サロンに、料理を提供していた女性たちが「自分たちにできることはないか」と手を挙げた。仲間の輪が広がり、炊き出しが始まった。

福祉センター「たかおと」で、かき揚げを作る神瀬マダムのメンバー。料理で地域を活気づけている=2020年11月21日、球磨村

 主な活動の場は、地元の住民集会「こうのせ再生委員会」。同委を引っ張る神照寺住職の岩崎哲秀さん(47)の声が掛かると毎回10人くらい集まり、村内外の仮設住宅などから戻ってくる住民らを料理でもてなしている。

 食材は寄付金などで調達。台所を汚すのが申し訳ないとして、仮設住宅の入居者が調理をためらう油料理も手掛ける。村の観光鍾乳洞「球泉洞」のレストランで腕を振るったメンバーもおり、味には定評がある。

 メンバーの1人で乗光寺坊守の豊橋則子さん(79)は「人のお世話が好きなだけ」と笑う。高台にある寺は被災を免れ、多くの避難者を受け入れた。今は料理で「お世話」を続けている。

 住民だけでなく、「たかおと」を拠点に村の復旧を後押ししているボランティアも神瀬マダムの料理を楽しみにしている。南阿蘇村から通う野田伊勢さん(45)は「長期滞在のボランティアは食生活が乱れがち。手作りの料理で元気が出る」と感謝する。

 自宅が濁流にのみ込まれた別のメンバー、上原三二三[みふみ]さん(75)は、みなし仮設住宅として入居した人吉市のアパートから神瀬に通っている。

 9年前に夫を亡くし、1人暮らし。高齢でもあり、当初は「もう神瀬には住めない」と考えた。しかし、マダムとして活動するうちに、離れ難い思いが生まれた。「マダムの仲間といると、気持ちが明るくなる。先のことは分からないが、どこにいても神瀬を忘れずにいたい」

 年齢を感じさせないエネルギッシュさで地域を切り盛りするマダムたちの後ろ姿を見て、子育て世代の女性たちも秋ごろ、「神瀬レディース」を結成。マダムと一緒に再生委の会合にも加わっている。地域の復興に向け、子育てや介護、福祉はどうあるべきか。女性ならではの視点で、思いを伝えている。

 豊橋さんは、神瀬レディースのような若い世代の力に期待する。「年寄りの私たちが頑張れば、帰ってくる人が増えるかもしれない。その日が来るまで続けんとね」

地震の経験、未来に生かす 「復興請負人」と共に

 「平屋は、地震に遭った西原村ならではの造り。水害だと2階建てになるかもしれないですね」

 青空が広がる昨年11月下旬。熊本地震の被害が大きかった西原村の災害公営住宅「山西団地」に、豪雨で被災した球磨村神瀬の住民を案内する佐々木康彦さん(41)の姿があった。数々の被災地で集落再生に関わった「復興請負人」だ。

熊本地震で大きな被害を受けた大切畑地区で、球磨村神瀬の住民を案内する佐々木康彦さん(右)=2020年11月28日、西原村

 静岡県富士市出身。2004年の新潟県中越地震を機に設立された公益財団法人・山の暮らし再生機構の職員として、旧山古志村などの被災地で復興支援に携わった。

 16年に熊本地震が起きると、災害応援のため現地入り。西原村に出向し、集落の復興計画づくりに中越の経験を生かした。19年に機構を退職すると、NPO法人「故郷復興熊本研究所」(同村)を設立。法人の理事長として被災地間の交流の橋渡しをしている。

 昨年7月の豪雨発生から約1週間後、神瀬に入り言葉を失った。片付けする住民や支援者の姿はなく、がれきは手付かずのまま。国道219号は寸断され、集落は孤立に近い状態が続いていた。

 これまで訪れた被災地と違う様相。「時が止まっている。ただごとではない」と神瀬に足を運び始めた。

 ボランティア活動を通じ、住民とのつながりが生まれた。8月末に始まった「こうのせ再生委員会」にもサポート役として参加。地元の神照寺の住職、岩崎哲秀さん(47)と進行役を務め、議論をリードしている。

 西原村視察も、佐々木さんが持ち掛けた。熊本地震から4年半が過ぎた現状を伝え、神瀬の復興に生かしてもらうためだ。

 地震を引き起こした布田川断層帯に近く、家屋の大半が全壊した大切畑地区。神瀬の住民らは擁壁工事が進む集落を歩きながら、地震時の区長だった大谷幸一さん(55)らの話に耳を傾けた。

 大切畑では一時、集団移転の話が持ち上がったが、住民同士で議論した結果、現地再建を選んだ。大谷さんは「集落から離れる人も含め、一人一人の意見を大事にしてほしい」と助言した。

 岩崎さんは、西原村の職員が視察に同行したことが印象に残ったという。「住民の意見が行政に伝わり、しっかり前に進んでいる。対立することなく信頼し合っているのが伝わってきた」

 集落再生に何が必要か。佐々木さんは重要な要素の一つとして「納得」を挙げる。住民が妥協したり、我慢したりすれば、地域が望む未来は描けないと考えている。

 「神瀬の再生は始まったばかり。皆が納得できるプロセスを経て復興に向かってほしい」。佐々木さんは、実現まで伴走する覚悟だ。

人口流出、被災追い打ち 山あいの集落

 「このままだと、誰もいなくなる」。昨年7月の豪雨で被災した球磨村神瀬の多武除[たぶのき]地区。村議会議長の多武義治さん(61)は、今なお土砂に埋もれたままの集落を歩きながらつぶやいた。

 林業で栄えた多武除。この地で生まれ育った多武さんは幼い頃、八代から訪れた商人に地区の大人たちがまきを売っていたのを覚えている。

 「当時の木材は高価で、東京の大学に子どもを出しても余裕があった。みんな豊かだった」。子どもも多く、地域にはにぎやかな声が響いていた。

 ところが、日本の高度成長とともに石油がエネルギーの主役に躍り出ると、木材価格は低迷。林業は衰退していった。過疎の波も押し寄せ、約100人いた地区の人口は5分の1以下に減った。

 その地区に、豪雨が追い打ちを掛けた。避難した住民は離れ離れのまま。山の神を祭る伝統行事も、今年は開催を断念した。多武さんは「人口流出に拍車がかかりかねない」と危機感を強める。

被災した多武除地区を訪れた多武義治さん。「今回の水害で人口流出に拍車がかかりかねない」と危機感を抱く=2020年12月7日、球磨村

 村によると、昨年12月1日時点で村に住民票があるのは1374世帯3383人。被災前の同年6月末に比べ、58世帯127人減った。村に住民票を残したまま、村外で仮住まいを続ける人も全世帯の約4分の1に上る。

 この20年ほど、全国で相次ぐ大災害も各地で人口を減少させてきた。2004年の新潟県中越地震で被災した旧山古志村は、被災前の約2千人から半数以下に。11年の東日本大震災でも、被災市町村の約9割で人口が減った。仕事や教育の都合で、避難先に定住した人は少なくない。

 球磨村は、山あいに集落が点在する典型的な過疎地。14年に民間の研究グループが公表した「消滅可能性都市」の一つで、高齢化率は45%にもなる。

 今回の被災を機に村へ戻るのをためらう人は多い。同村渡の自宅が浸水し、近くの仮設住宅で暮らす長崎香織さん(40)は「親切な人が多い集落だが、水害は怖い。これからどうするか悩んでいる」と打ち明ける。

 村は昨年12月、復興計画の骨子案を公表。被災した住宅の移転先の候補として、高台の造成や宅地のかさ上げを予定している8カ所を示した。地域別の復興方針も提示。神瀬は「林業の振興を担う地域」としたが、具体化はこれからだ。

 村のアンケートでは、回答した住民の約9割が「村に戻りたい」と希望。一方、待てる期間は「1年以内」が最多だった。

 人口流出を防ぐため、魅力ある地域の将来像を早期に示す必要に迫られている球磨村。松谷浩一村長は「復興のためには、特色ある新たな村づくりが必要。住民の意見を聞き、できるだけ早く方向性を示したい」と話す。

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