政治家志望し家から勘当 まるで「梁山泊」の面々と熊本へ 田中角栄氏「3万軒訪問しろ」 どぶ板選挙 どちらの細川さん? <細川護熙さんのあのころ>

熊本日日新聞 | 2023年4月21日 03:00

1971年6月、33歳の時に参院選全国区で初当選。当時の最年少参院議員だった

(聞き手・宮下和也)

 -政治家になることに、父親の護貞さんは反対されたとか。

 そうですね、政治の世界に行くなんてとんでもないと。でも、自分もかつて(熊本の)知事選に出たいなんて言ってたこともあるんですよ。もちろん戦後の話。みんなから止められてね。祖父なんか「ばかな奴だ」と言ってましたよ。十條製紙の監査役とかいろいろしてたのに、「政治に出たい」って。

 周囲から「知事に出たらどうか」って、だいぶおだてられたんでしょう。結局、やめましたけど。

 -おじいさんの護立さんは細川さんにも何か言われましたか。

 私には直接何も言いませんでしたね。祖父は昭和45(1970)年に亡くなってますからね。私は46年に初当選してるわけですから。

 だけど家からは勘当でしたからね。本当に勘当されましたよ。父は自分も戦前は政治の世界にいて、嫌な世界だ、大変な世界だと思い知っていたからでしょう。

「まずい焼き鳥と水っぽい酒」の店で意気投合

 -昭和43(1968)年に朝日新聞社を退社。初の政界挑戦は翌44年12月の衆院総選挙でした。中選挙区制の熊本1区から立候補しますが、落選します。

 勘当中の私は熊本の家にも入れてもらえなかった。退職金なんてほんとにわずかなものですからね。坪井か南坪井の安宿を転々としながら、ずーっと選挙運動をやってたんですよ。東京から、関上(伸彦)と八塚(南海夫)という二人、早稲田の学生だったけどついてきてくれてね。2カ月くらいそれでやってたかな?

 そうしたら、たまたま町で知り合ったお医者さんが、河野龍巳先生っていうんだけど。その先生が、うちの看護婦さんの寮に入れてやるって言っていただいて。それで3人で転がり込んで。河野先生はずーっと最後まで後援会長でした。

 -関上さん、八塚さんたちとの出会いは。

 私が新聞記者の頃に、警視庁で下町担当だったんですね。第6方面というあたり。で、夜中の1時とか2時とかに、夜回りが終わって、早稲田の一杯飲み屋によく立ち寄ったわけですよ。その飲み屋の名前がね、「まずい焼き鳥と水っぽい酒」というのれんがかかった店でね。そこに八塚や関上、それに後から秘書軍団に加わった半田(善三)や深山(正敏)などが、みんなそこにいたわけです。早稲田の精神昂揚会というグループでした。

 その連中が私と意気投合して、「熊本に付いていきます」と言うんで、おんぼろな車に乗っかって、東海道をずーっと、3人で行ったわけですわ。そうしたら途中で、エンジンが燃えちゃってね。車はもう使い物にならんようになったんですけど。それ以来の関係が今でも。

 関上はこないだ亡くなりましたけど(2018年10月)、八塚はまだ健在です。口は達者でよく電話してきます。そういうつながりですから。まだ半田も元気でいるし、新潟や長崎から県会議員に出た連中もいたし、いろいろそういうやつがいるんですよ。

 -何だか「プレ日本新党」みたいですね。こっちは今も解党していない。

 そうそう。それは解党してない。まさに梁山泊(りょうざんぱく)。関上なんて早稲田に8年いて追い出されたんですからね。もうこれ以上来てもらっちゃ困ると。

 ほんとにね、下町の夜回りして、帰りに水っぽい酒で、明け方まで悲憤慷慨(こうがい)して天下国家を論じてましたよ。

角さんはいつも財布から20万円

 -選挙前にはいろんな方に相談されたのですか。

 「私の履歴書」(日本経済新聞)にも書きましたが、衆院選に出るに当たり、吉田茂さんから名刺をもらい、まず佐藤栄作首相にお会いしました。佐藤さんから「(ベテラン議員の多い)熊本は割り込むのが難しい。その顔触れだと、力を貸してくれそうなのは角栄君くらいだろうな」と言われた。田中角栄さんは当時、自民党幹事長でした。

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