水俣病

 「公害の原点」と呼ばれる水俣病は、熊本県水俣市で操業していた原因企業チッソが、毒性のあるメチル水銀を含んだ工場排水を不知火海に流し、汚染された魚介類を食べた人たちの脳や神経に損傷を負わせました。

 患者が公式に確認されたのは、1956(昭和31)年5月1日。戦後の復興で「経済」が優先された高度成長期にあって、チッソはおろか、政府や熊本県、政治も未曽有の公害に真正面から向き合いませんでした。原因究明の議論に長い歳月が費やされる一方、工場排水は止まらないまま、被害は拡大し続けました。

 沿岸の被害者は地域社会での差別を恐れて潜在化しました。行政が患者を認定する仕組みは、過去に司法から硬直的な運用が指摘された〝狭き門〟。行政から患者と認められなかった人たちが集団訴訟に訴えて政治的な救済が図られる歴史の繰り返しでした。その数は、一時金の対象者だけでも4万人を超えました。公式確認から半世紀以上たった今も、被害者が補償を求めた裁判は続いています。

 水俣病は、工業の発達による便利さを追い求めた現代社会の構造に由来した公害です。企業や行政が人の命や健康を軽視して適切な対策を取らなければ、取り返しのつかない被害をもたらす-。水俣病の歴史は、持続可能な社会の実現に向けて私たちに重い教訓を投げかけています。

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