おぼろ迷宮(4)
1 最初の事件(四)
「えっ」
すると店主は昨夜もちゃんと店にいたというのか。
こんなことって--
そこへ主婦らしい二人連れの女性が入ってきた。客である。
「いらっしゃいませ」
店主は愛想よく対応してから、夏芽に向かって小声で言う。
「もういいから早く入って」
「あっ、はい」
さっぱり分からないまま厨房に向かい、左手にある二畳ばかりの納戸に入った。そこは従業員室兼用となっていて、手早くジャケットを脱いでエプロンと三角巾を着ける。
着替えを終えて厨房に出たとき、作業台の隅に餡[あん]の入った鉢が置かれていることに気づいた。普段は使っていない鉢に、ほんの少しだけ餡が残っている。さらに夏芽の興味を惹[ひ]いたのは、それがこし餡であったことだった。店主の泰次はつぶ餡が得意で、こし餡を作ったことは少なくとも夏芽がバイトを始めてから一度もない。
客席の方を見ると、泰次は主婦達の注文を聞いている。夏芽は咄嗟[とっさ]に洗ってある小さじを取り、残っていたこし餡を取って口に運んだ。頬を動かさないように留意してすばやく味わう。
上品で滑らかな舌触り。泰次の作るつぶ餡も絶品だが、これもまた極上の味わいだった。少なくとも、泰次の味ではない。
「夏芽ちゃん、早くお茶をお出しして」
注文を受けた泰次が戻ってくる。
「はあい」
咄嗟に平静を装って返事をする。
急須に湯を注ぎながら、夏芽はいよいよ混乱した。
一体何がどうなってんの--
その夜のバイトを終えた夏芽は、まるで誰かに追われているような心地がして、何度も後ろを振り返りながらアパートに戻った。C県の小さな町にある築五十年だか六十年だかの老朽物件で、〈ザ・昭和〉といった佇[たたず]まいを見せている。物件名は『朧[おぼろ]荘』だが、『おんぼろ荘』の間違いじゃないかと同じ大学の友人である紬[つむぎ]に笑われたくらいである。
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