おぼろ迷宮(10)
1 最初の事件(十)
鳴滝は年齢に不相応とも言える精密さでフォークを動かし、オレンジケーキを切り分ける。その分量がまた絶妙で、老人の一口分にちょうどよく、且[か]つまた全体の形を少しも崩さずして断面さえも美しいまま。
スイーツにこだわりのある夏芽は、さながら剣豪の試し切りを見る思いで老人のフォークさばきに見入ってしまった。
「和菓子屋は午後早い時間に商売を終える店も多いものですが、甘吟堂は違うのですか」
「あっ、はい」
我に返って老人の手許から視線を上げ、質問に答える。
「夕方や夜に来られるお客様もいらっしゃるんで、その日用意したお菓子が売り切れるまでは営業してるんです。もちろん私は定時で上がるんですけど、お客が多いときには時間を延長してバイトすることもあります。それだけ時給が増えるわけですから、私も大助かりなんです」
オレンジケーキをゆっくりと口に運びながら聞いていた老人が、最後のひとかけらを名残惜しそうに嚥下[えんか]して、
「それで、お嬢さんは少なくとも半年くらいは甘吟堂でバイトを続けていたというんだね」
「ええ、だから店を間違えることなんて絶対にあり得ないんです」
「一昨日、雨の夕方、いつものようにバイトに行くと知らない男がいて、自分は店主だがあんたなんか知らないと言った」
「はい」
「昨日はいつも通りに見慣れた店主がいて、昨日はなんでバイトをサボったんだと文句を言われた」
「はい。あたし、仕事が終わった後に何度も言ったんです、昨日店に知らない男がいて店主だと名乗ったって。そしたら雛本さん、そんなバカなことがあるわけないだろうって取り合ってもくれないんです」
「しかし、店主が作ったとは思えないこし餡が残されていたと」
「ええ、そうなんです」
「なるほど、分かりました」
そう言って、鳴滝はコーヒーを美味そうに飲んでいる。
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