おぼろ迷宮(1)

熊本日日新聞 2023年2月27日 05:00
おぼろ迷宮(1)

 1 最初の事件(一)

 夕暮れの暗い雲は、こぬか雨となって夏芽[なつめ]の髪をしっとりと濡らしていった。

 お店までは保[も]つと思ったのに--

 バス停前のコンビニでビニール傘を買うべきだったと後悔するがもう遅い。夏芽は雨の中を懸命に走った。この上バイトに遅刻では目も当てられない。大学の教科書が背中のリュックの中で揺れている。

 薄暗い路地の先に、ぼんやりと店の明かりが見えてきた。走りながら反射的に腕時計を見る。間に合った。午後五時まであと五分ある。

 『甘味処 甘吟堂[かんぎんどう]』と染め抜かれた暖簾[のれん]を潜り、夏芽は勢いよく店の引き戸を開ける。客は一人もいなかった。

 「すみません、講義が長引いて遅れました」

 ハンカチ代わりのハンドタオルを取り出して、ベリーショートにした髪を拭きながら声をかける。奥から出てきた男が夏芽を見て愛想よく応じた。

 「いらっしゃいませ」

 え--?

 厨房白衣を着て調理帽を被っているが、四十前後のまるで知らない男だった。

 「あたし、ここでバイトやってる三輪[みわ]夏芽と申します」

 とりあえず挨拶する。

 「新しい職人さんですか」

 すると男は不審そうに夏芽を見て、

 「なに言ってんの、あんた。お客じゃないんですか」

 「はあ? いえ、だってあたしこのお店のバイトなんですけど……」

 「バイトならちゃんといるけど」

 奥を振り返った男の視線に応じるかのように、丸刈りの若い男が顔を出した。やはり見たこともない顔だ。

 「あの、店主の雛本[ひなもと]さんはどちらに……」

 困惑しながら尋ねると、予想だにせぬ答えが返ってきた。

 「店主は私ですけど」

 「どういうことですか。あなた、誰なんですか」

 「だからここの店主だって言ってるでしょ。ウチはね、代々ここで暖簾を守ってきたんだから。変なこと言ってないで早く出てってくれ」

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