おぼろ迷宮(1)
1 最初の事件(一)
夕暮れの暗い雲は、こぬか雨となって夏芽[なつめ]の髪をしっとりと濡らしていった。
お店までは保[も]つと思ったのに--
バス停前のコンビニでビニール傘を買うべきだったと後悔するがもう遅い。夏芽は雨の中を懸命に走った。この上バイトに遅刻では目も当てられない。大学の教科書が背中のリュックの中で揺れている。
薄暗い路地の先に、ぼんやりと店の明かりが見えてきた。走りながら反射的に腕時計を見る。間に合った。午後五時まであと五分ある。
『甘味処 甘吟堂[かんぎんどう]』と染め抜かれた暖簾[のれん]を潜り、夏芽は勢いよく店の引き戸を開ける。客は一人もいなかった。
「すみません、講義が長引いて遅れました」
ハンカチ代わりのハンドタオルを取り出して、ベリーショートにした髪を拭きながら声をかける。奥から出てきた男が夏芽を見て愛想よく応じた。
「いらっしゃいませ」
え--?
厨房白衣を着て調理帽を被っているが、四十前後のまるで知らない男だった。
「あたし、ここでバイトやってる三輪[みわ]夏芽と申します」
とりあえず挨拶する。
「新しい職人さんですか」
すると男は不審そうに夏芽を見て、
「なに言ってんの、あんた。お客じゃないんですか」
「はあ? いえ、だってあたしこのお店のバイトなんですけど……」
「バイトならちゃんといるけど」
奥を振り返った男の視線に応じるかのように、丸刈りの若い男が顔を出した。やはり見たこともない顔だ。
「あの、店主の雛本[ひなもと]さんはどちらに……」
困惑しながら尋ねると、予想だにせぬ答えが返ってきた。
「店主は私ですけど」
「どういうことですか。あなた、誰なんですか」
「だからここの店主だって言ってるでしょ。ウチはね、代々ここで暖簾を守ってきたんだから。変なこと言ってないで早く出てってくれ」
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