第41回 金栗四三翁マラソン大会

第41回 金栗四三翁マラソン大会

ゲストランナー


第41回 金栗四三翁マラソン大会
野口みずきさん

出身:三重県
出身校:宇治山田商業高校
ベスト記録:フルマラソン 2時間19分12秒

主な成績
2002年 名古屋国際女子マラソン 優勝
2003年 大阪国際女子マラソン  優勝
2003年 世界陸上パリ大会    2位
2004年 アテネオリンピック   優勝
2007年 東京国際女子マラソン  優勝

現在
岩谷産業陸上競技部アドバイザー
日本ブラインドマラソン協会理事

金栗伝説


マラソン足袋の変遷。表部分(上)と裏側(下)
マラソン足袋の変遷。表部分(上)と裏側(下)
伝説① 当時のマラソン世界新記録樹立
1911年に開催されたオリンピック国内予選会で世界記録を27分も縮める2時間32分45秒で優勝!
当時のマラソンシューズは足袋、路面も現代とは違って悪路。周囲を驚嘆させる記録でした。

伝説② 更に3度!!自身の世界新記録を樹立
1度目:1911年 オリンピック国内予選会(2時間32分45秒)
2度目:1913年 第1回陸上競技選手権大会(2時間31分28秒)
3度目:1914年 第2回陸上競技選手権大会(2時間19分30秒)
※当時は25マイル=40.233km

1912年のストックホルム五輪開会式で、「NIPPON」のプラカードを持ち行進する金栗四三
1912年のストックホルム五輪開会式で、「NIPPON」のプラカードを持ち行進する金栗四三
伝説③ 五輪にマラソン代表として4度選出
1912年 ストックホルム(途中落伍)
1916年 ベルリン(戦争のため中止)
1920年 アントワープ(16位)
1924年 パリ(途中棄権)
初回五輪出場から12年もの間、日本のマラソン界のトップとして牽引しました。

日本人初参加のストックホルム五輪を記念した金栗四三の写真
日本人初参加のストックホルム五輪を記念した金栗四三の写真
伝説④ 箱根駅伝の創設者!
金栗氏は、「オリンピックで日本を強くするには長距離、マラソン選手を育成すること。そのためには長距離リレーが最適だ」と箱根駅伝創設を呼びかけ、1920年に四大専門学校対抗駅伝競走(現:東京箱根間往復大学駅伝競走「通称:箱根駅伝」)を開催しました。
新春の風物詩となった箱根駅伝で最も活躍した人に贈られる「金栗四三杯」は、金栗が1911年に受賞したオリンピック国内予選会の優勝カップを複製し、和水町から寄贈したものです。

少年時代の金栗四三(前列右から2人目)。8人きょうだいの7番目に生まれた(玉名市立歴史博物館提供)
少年時代の金栗四三(前列右から2人目)。8人きょうだいの7番目に生まれた(玉名市立歴史博物館提供)
伝説⑤ 日本で初めて高地トレーニングを提唱した人物
今や陸上界の定番となっている高地トレーニング。その先駆けを提唱した人物も金栗氏でした。
夏の駅伝といえば富士登山駅伝。日本一の標高差を誇るこの大会にも金栗氏が携わっており、優勝チームには金栗四三杯が贈られています。日本マラソンの父と言われる所以です。

伝説⑥ 江崎グリコの「ゴールインマーク」のモデルの一人
グリコ・ゴールインマークのモデルとなったと言われる多くのランナーの中のお一人と言われています。

1967年、ストックホルム五輪の55周年記念イベントの夕食会に出席した金栗四三
1967年、ストックホルム五輪の55周年記念イベントの夕食会に出席した金栗四三
伝説⑦ ロマンティック大記録(オリンピック史上最も遅いマラソン記録)
四三氏は初参加だった1912年のストックホルム五輪のゴール出来なかったことがとても心残りでした。(日射病により26.7km 地点で途中落伍)記録は行方不明として扱われていました。
月日は流れ、55年後の1967年、ストックホルムオリンピック委員会から「オリンピック55周年記念行事」へ招待されます。本委員会はゴールを果たせなかった四三氏に対して当時のコースを再現。
昭和42年、54年8ヶ月6日5時間32分20秒3のタイムでゴール。
会場では「日本の金栗がただ今ゴール。これをもってストックホルムオリンピック大会の全日程を終了する」とアナウンスされました。