亡父語った日本兵の記憶 「日の丸を返したい」元米兵の娘、当時の様子を聞き書き

熊本日日新聞 | 2020年9月26日 12:00

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技術軍曹だったノード・レイノルドさんの父、ウィリアム・ワートンさん。終戦の時は24歳だった(ノードさん提供)

 太平洋戦争の激戦地だったフィリピン・ルソン島で、降伏した日本兵から亡父が預かった日の丸旗の寄せ書きを返したいと、米ジョージア州在住のノード・レイノルドさん(65)が日本の関係者を捜している記事を2日付本紙朝刊で掲載した。寄せ書きには、熊本で編成された第23師団の師団長とみられる西山福太郎ら6氏の名前が書かれている。ノードさんは生前亡父が語った当時の様子を聞き書きしており、その英文の記録を和訳して紹介する。(平澤碧惟)

 ※情報は熊日文化生活部TEL096(361)3181、メール=bunka@kumanichi.co.jpまで。

 1945年6月の午後。米国第3軍の戦闘部隊だったウィリアム・ワートンら部隊員は、仏マルセイユにある輸送艦に乗り込むようにと命令を受けた。数週間前の5月7日にはドイツが降伏し、ヨーロッパにおける第2次世界大戦は終わりを告げていた。若い米兵らはようやく帰宅できるものだと思い、安堵[あんど]と疲弊とともに武器を船体に詰め込んだ。

 出発して数日後、米兵たちは喜ばしくない光景を目にする。パナマ運河だ。米兵たちは、愛する人の待つ故郷に向かっているのではなく、戦いの続く太平洋戦線に向かっているのだと思った。

 彼らの目的地は、フィリピンのルソン島だった。日本兵がジャングルの丘や谷間の奥深くに塹壕[ざんごう]を掘って身を潜めている場所だ。米兵たちはうんざりした気持ちで上陸用船艇に乗り、浜辺を進み、マニラ湾に設置されていた連合軍のテント設営地へと向かった。

 彼らは空の寝床を見つけ、武器を置き、次の指令が下るのを待った。24歳の若き軍曹ワートンと彼の部下たちにとっては落ち着かない時間だった。

◆「戦争が終わったことを知っているだろうか」

 2週目がたったある朝、ワートンは緊急命令を受けた。「軍曹!(ワートン)、おまえの自動小銃は整備され戦闘装備も完了した。おまえが行くときだ!」。司令官の怒鳴るような声を合図にワートンは服を着替え、武器を装着し、急いで命令されたアパリへと向かった。アパリは、島の最も北にある場所で、山脈が東から西へとのびている。恐ろしいことに、谷の合間合間には日本兵が身を潜めている。

 ワートンの任務は、アパリの山々から流れる水を浄化し、給水地点を設置することだった。その月の下旬、連合軍はついにフィリピン人を解放することになるが、日本は降伏せず、日本兵たちはいまだアパリ近くのジャングルや谷間に塹壕を構え、身を潜めていた。

 それから1カ月がたったが、降伏命令に対する日本側の返答はないままだった。8月6日、米兵たちは最初の原子力爆弾が日本に落とされたことを知った。その3日後に二つ目の原子力爆弾がさく裂し、8月15日、連合軍は日本に勝利したと発表。9月2日、ついに日本は降伏し、これを最後に第2次世界大戦は終結した。

 フィリピンでは戦争が終わったことを日本兵に知らせるために、連合軍がさまざまな言語で書かれたビラを、遠く離れた丘や谷に空から落とした。現地の部族が住む農村地帯や、日本軍が身を潜めている場所にも落としたので、彼らは戦争が終わったことを知ったはずだった。

 しかし、数日たってもワートンと部下たちは日本兵が武器を手放した気配を感じなかった。「日本兵はリーフレットを見ただろうか」「ニュースを聞いただろうか」「戦争が終わったことを知っているだろうか、それとも戦いに備え、いまだに構えているのだろうか」。ワートンと部下たちは、遠く離れたアパリの地で用心深く待機しているしかなかった。世界では戦争が終結し喜びにあふれていたが、彼らは身体的にも精神的にも一緒に喜べるような状況ではなかった。

◆「彼らは困窮し、疲れきり、栄養失調である様子だった」

 ある早朝、自動小銃を肩に掛けパトロールに出かけたワートンは、角を曲がったところで偶然、日本兵と鉢合わせた。恐怖に駆られたワートンは本能的に日本兵に武器を向け、降伏するよう叫んだ。

 「Don,t shoot!(撃たないでくれ!)」。その日本兵は手を上げ、完璧なまでの英語で返答してきた。日本兵は続けて英語で「私はシアトル出身です。あなたはどこ出身ですか?」。ワートンは一瞬きょとんとし、困惑したまま、その若い日本兵から武器を取り上げた。ワートンは、その日本兵がほとんどの生涯を米国で過ごし、戦争が始まった際、日本に強制帰還させられ、天皇に服従すべく召集されたと知った。日本兵として戦争に参加することは、堪え難い苦しみであるのだと思った。

 その日本兵は英語が話せることから、ワートンは日本軍に正式に降伏させるために、降伏の式典の日時と条件を決めて、その若い日本兵を日本司令部の元へ帰した。

 ワートンは急いでテントを張り、式典の場所を作った。ワートンたちは、ひたすら若い日本兵たちを待った。本当に来るのか、自信はなかった。

 翌日の遅めの朝、現地部族のイゴロット族の高齢の女性たちがやってきた。彼女らは日本兵を案内しているのか、それとも単なる好奇心で来たのか、定かではなかった。しかし、彼女らが来たのと同時に日本兵の姿が見えてきたので、案内役だったと分かった。

 ワートンと部下たちは、彼らの緊張を和らげようとした。しかしワートンは日本兵の姿を見て驚き、人間として悲しんだ。彼らは困窮し、疲れきり、栄養失調である様子だった。数十人もの日本兵は、最後にやってきた人物と比べると、ぼろぼろの身なりで、この地に来ることすら困難だったように見えた。

 最後にやってきたのは、2人の将校、西山大将と高津少将だった。彼らは、竹のいかだの上にバランスよく取り付けられた玉座のようなイスに、背筋をピンとはり座っていた。竹のいかだを持ち上げている日本兵は、自身の身体を支えるだけでも精いっぱいに見えたが、谷間を縫ってここまで来る間も、式典の間も大将たちを見事に支えていた。

◆「大将は深く頭を下げ、それらを敬愛の証しとして手渡した」

 式典で、米兵はワートンと部下数人しかおらず、日本兵が圧倒的に多かった。ワートンは勇気を振り絞って、「日本は降伏した。武器を手放すことを要求する」と告げると、驚くことに、たくさんのナイフや剣、小銃が微光を放ちながら足元に積み上げられた。

 すると今度は西山大将がワートンの元に来て、ゆっくりと制服の胸ポケットに手を伸ばした。ワートンの胸の鼓動は速まり、部下はその外国人将校に銃を向けた。緊張から、彼らの間にはハアハアと荒い呼吸音が響いた。大将がポケットから手を取り出すと、きれいに畳まれた白いシルクの布があった。真ん中に真っ赤な模様がある。日本帝国の象徴である日の丸だった。

 大将にとって、その軍旗はお守りだったのだろう。大将は深く頭を下げ、それらを敬愛の証しとしてワートンに手渡した。大将の振る舞いの重要性に気付いたワートンは、その布にサインをするよう求めた。部下は素早くワートンの私物の羽ペンとインクを大将に渡した。日本兵らは日本語で彼らの名前を書き、驚くことに英語でも書いてくれた。書き終わると日本兵たちは必ず一礼した。

 彼らがサインをしているとき、米軍警察がやってきた。軍警察は日本兵の武器をトラックに積み込むと、彼らをバギオ村まで行進させた。バギオ村は、彼らが捕虜として収監される場所だ。

 ワートンと部下たちは式典の場所を撤去し、荷物を詰め、マニラ湾へと南下した。数週間後に米国から帰還指令が届き、ワートンは再び荷物をまとめ、元敵陣のサインが刻まれた日の丸を三角に折り畳んで胸ポケットにしまった。日の丸はワートンにとって、まさに大戦争の象徴でもある。彼にとっての戦争は終わった。

 2004年8月。少し擦り切れ、色あせたその軍旗は物置から取り出され、広げられて額に入れられた。今は私(ノードさん)の家の壁に掛けてある。日本の降伏から約60年後、私の父、ウィリアム・ワートン軍曹は、その日の丸を彼の最初の孫、つまり私の息子のデュルー・ワートン・レイノルドに渡した。彼が24歳の誕生日の時に。

 家族はこれまでに見たことのなかった軍旗の周りに集まり、父は「僕はこの時を待っていたよ」と家族に言った。そして私の息子に「おまえに伝えるべき話があるんだ。それは僕が24歳だったあの夏をどう過ごしたのかについてだ」と自身の体験を語り始めた。