水俣病に学び、近代化問う 歴史家・色川大吉さん「不知火海民衆史」を自費出版

熊本日日新聞 | 2020年11月18日 10:08

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インタビューに答える色川大吉氏=山梨県北杜市の自宅

 水俣病の調査などに関わった歴史家の色川大吉さん(95)=山梨県=が、水俣病に関する初の単著「不知火海民衆史」(揺籃社)を自費出版した。研究者グループ「不知火海総合学術調査団」の団長として、1976年から約10年にわたって不知火海の沿岸を歩き、これまで発表してきた患者の聞き書きや論考を上下巻計650ページにまとめた。今も終わらない水俣病に何を学ぶべきか、あらためて問いを投げ掛けている。(並松昭光)

 調査団は水俣病を告発した作家・故石牟礼道子さんの要請で発足した民間の研究グループ。社会学、歴史学、政治学、経済学、生物学、医学などを専門とする多彩な研究者が加わり、水俣病の被害の実態を多角的に調べた。色川さんは76~80年の第1期を率い、成果として83年に「水俣の啓示」と題した論文集を出版している。

 今回は、前作に収録した当時の論文とタイトルは変えず、水俣市から芦北、天草、鹿児島へと視野を広げた。「水俣病は水俣に限らない。不知火海一円を視野に収めなければならないと考えてきた」と色川さん。「心残りの仕事をまとめた念願の作品」と出版の経緯を明かす。

 上巻では、59年11月に天草や芦北など不知火海沿岸の漁民約2千人がチッソ水俣工場に押し寄せ、100人以上の負傷者を出した「漁民騒動」を詳述。色川さんが「水俣病事件史の一つの転機を画する歴史的事件」と位置付けた騒動は水俣病で魚が売れなくなり、困窮した末の決起だった。

 だが、漁民側の幹部やデモ隊の一部が懲役刑や罰金刑を受け、チッソとの間で漁業補償が結ばれたことで、「水俣病は終わった」とする社会的空気が生まれた。有機水銀の排水は止まらず、被害は不知火海全体に広がった。

 「あの漁民騒動の衝撃がマスコミの注目を集め、水俣病を解決する糸口になった。百姓一揆にしても、明治維新にしても、“一撃”が門を開くんですよ」と語る色川さんは、漁協幹部の聞き取りや供述調書を通して経過を再構成し、当時の警察や検察の不公平な対応を指摘。検察や行政や企業が漁民の叫びを真剣に受け止めていれば、患者の発生や地域社会の打撃は大半免れていただろうと断じている。

 患者の聞き書きで構成する下巻は、「天草なんかの島をぼつぼつ訪ね歩いて、生き残っていたおじいちゃん、おばあちゃんに話を聞いて回った」という。

 鹿児島県の獅子島で最初の認定患者になった女性の聞き書きでは、補償金を受けることが分かると周囲や親せきから「村はずし(村八分)」を受けた女性が涙ながらに語ってくれた言葉が記録されている。

 〈魚が売れんごとすなっていうところで。(中略)私が浜にでも行けば、どうじゃこうじゃ言うでしょが。私はそのころ『籠[かご]の鳥』といっしょ、家のまわりにゃ出られんかったですよね〉

 芦北・鶴木山の網元が、「魚[いお]わく海」と称されたかつての不知火海を回想する言葉も印象的だ。

 〈太刀魚の全盛期に飛ぶとば見すらるるとよかった。見事なもんですよ。鰯[いわし]を食いに来っとですたい〉

 色川さんが丹念に拾い集めた患者らの記録からは、水俣病が集落の人間関係を壊し、漁民の豊かな暮らしを奪った様子がくっきりと浮かび上がる。

 現在、八ケ岳を望む山梨県北杜市の自宅で暮らす色川さんは、不知火海総合学術調査団から40年を経ても、漁民との交流を昨日のことのように語る。

 「民衆とか住民とかってひと口に言われるものの持つ英知、気力、反発する力に、われわれインテリなんかぶっ飛ぶほどの感動を受けた」

 被害を小さくとらえようとする勢力に民衆が抵抗して切り開いてきた水俣病の歴史。学者としての円熟期の多くを注いだ調査は、近代化を問い直す作業でもあった。「日本の近代化がおかしいのは、チッソ一つ見れば分かる。近代化していくほど、人間が毒で死んでいくなんて、何が近代化なんだ。水俣病はチッソ、役所、(水俣病を引き起こした)プラスチックを使い続けてきた私たちも同罪だ」

 水俣病はなぜ今も終わらないのか-。その問いに色川さんは、やや寂しげに答えた。

 「もう、解決しようとする人がいなくなったんだろう」

◇いろかわ・だいきち 1925年、千葉県生まれ。東京大文学部卒。歴史家、東京経済大名誉教授。主な著書に「明治精神史」「ある昭和史-自分史の試み」「イーハトーヴの森で考える-歴史家から見た宮沢賢治」など。