4月16日付

4月16日 09:25

 名所を訪ねたり、友人や同僚らと愉快な宴席を囲んだりした思い出はいくつもある。けれども、その中で記憶に残る花見を一つだけ選ぶとすれば、迷うことなく3年前の熊本城の桜を挙げる▼たしか土曜日の4月2日だった。家人と弁当を広げた昼時の竹の丸は、子どもたちの歓声と大人たちの笑い声が入り交じり、いかにも楽しげな雰囲気に包まれていた。満開の桜も長塀の白壁から照り返される陽光に映えて、その花色は鮮やかだった▼といってそれまでの花見と大きく違うものではない。むしろ平凡な日常のひとこまとして、いつもならばすぐに忘れてしまうような経験だった。にもかかわらず記憶があせないのは、その10日余り後に花見の光景とは対照的な、暗いモノクロームの日を迎えたからだろう▼京都大防災研究所の矢守克也教授が、今年1月6日付の『くまにち論壇』で災禍の「前日」の意味について記していた。被災者の災害前日の記憶に耳を傾けると、巨大な災禍が奪うのは<日常の平凡な出来事や暮らしであり、そのかけがえのなさ>であることが分かるのだと▼小欄の記憶に刻まれた竹の丸の花見のにぎわいは、いずれ復活するだろう。しかし、家族の命やともに暮らした家などを奪われた人たちの「前日」は、文字通りかけがえのないものである▼「消せない悲しみ」と「それでも歩む」の見出しが並ぶきのうの本紙朝刊を読みながら、復興では取り戻すことができない被災者の「前日」の記憶の重さに、改めて思いを巡らせた。