1月21日付

1月21日 09:15

 駅伝というのは、集団競技なのか、個人競技なのか。昨日、熊本が健闘した都道府県対抗男子駅伝をテレビ観戦しながら、そんなことを考えた▼たすきをつなぎチームとしての成績を競う点では、まぎれもなく集団競技だろう。といって各区間を任されるのは選手個人であって、その選手の調子が悪くても野球やサッカーのように競技途中で交代することはできない▼英国の作家アラン・シリトーの小説『長距離走者の孤独』の主人公は、競技会で後続を引き離しながら、ゴール手前で自分の意思で立ち止まりレースを終える。周囲の期待にあえて逆らい<自分ひとりの力で田野を駆けてゆく>とのランナーの孤独なプライドを守るために▼この主人公とは対照的と言っていいのが金栗四三だろう。日本最初の五輪走者として出場しながら、体調不良で途中棄権。期待に応えられなかった無念を生涯背負い続けた▼その後の競技人生も順調と言えるものではなかったが、重圧につぶれることはなかった。その理由を金栗の伝記『走れ二十五万キロ』の著者長谷川孝道さんは、金栗が<一方的に国や組織から責任を背負わされてしまった人>ではなく、<自らの発想、努力で国のスポーツ発展を背負おうとした人>だったからとしている▼そういう意味では、個人の努力の積み重ねを集団の成果につなぐ駅伝は、その創設にも関わった金栗の人生を反映した競技のように思える。それが、見ている側も己の人生を重ね、共感を覚える魅力となっているのだろう。