10月18日付

10月18日 08:01

 作家の故井上ひさしさんに中学生のころの苦い思い出をつづったエッセーがある。転校先の岩手県一関市の書店で、井上さんは生まれて初めて万引をした。なぜかは分からないが小さな英和辞典を上着の下に隠してしまった▼「坊やに話がある」。店番のおばあさんに見つかり、裏に連れていかれた井上さんはこう諭された。家族6人を養うにはこういう本を月に100冊も200冊も売らなければならない。坊やのような人が大勢いれば家族は飢え死にしてしまう。坊やのやったことは人殺しに近いんだよ、と▼書店の庭でまき割りをして許してもらった井上さんは、万引が「緩慢な殺人」に等しいことが骨身にしみたという。それにならえば、いまだに被害の全容が見通せない台風19号の被災地でも、緩慢な殺人行為が横行しているようだ▼住民が避難して誰もいなくなった家屋から金品が盗まれる空き巣被害が出ているという。自宅が水につかり、多くの被災者が途方に暮れている。そんな人たちに追い打ちをかける卑劣な所業である▼思い返せば3年半前の熊本地震のときも、被災した家屋を狙った空き巣被害が相次いだ。先月の台風15号でも、千葉県内で空き巣や、勝手に屋根の補修工事をして法外な料金を請求する事案があった▼井上さんは書店のおばあさんに諭され、欲しいものがあれば働けばいい、働いても買えないものは欲しがらなければいいという世間の知恵を手に入れた。そんな知恵とは全く無縁な輩[やから]の多さに、思わずため息が出る。