5月16日付

5月16日 09:34

 堺市の前方後円墳「仁徳[にんとく]天皇陵古墳」は、大阪湾に入る船からの眺めを意識して造られた。兵庫県立考古博物館名誉館長の石野博信さんは、学生時代に先輩からそう教えられた。約60年前のことだ▼そのころ宮内庁の委員をしていた恩師のお供で、外周の堀を小舟で渡り、中心の墳丘に上陸したことがあるという。学術調査も制限されている天皇陵に足を踏み入れたのは、胸弾ませる体験だったに違いない▼仁徳天皇は実在した人物か、学界では論議が続いている。もちろん墓の主も確定せず、学術的には古墳の名も定まっていない。古い地名から別名「大山[だいせん]古墳」と呼ばれているのもそのためだ▼甲子園球場12個分という巨大墳墓を造るには、1日2千人を使役しても15年8カ月かかったはず、という試算がある。絶大な権力を誇った墓の被葬者は、当時中国の『宋書[そうじょ]』に記された「倭[わ](日本)の五王」の1人だろうか▼倭の五王はいずれも宋(南朝)に朝貢していたとされる。大陸や朝鮮半島からは渡来人がやってきて、進んだ技術や漢字などの文化を伝えた▼仁徳陵など49基からなる古墳群が今夏、世界遺産に登録される見込みとなった。昨年の宮内庁と堺市の調査で、同陵の外周の堤には白っぽい石が敷かれていることが分かった。古代には中心の墳丘にも木々はなく、葺石[ふきいし]で覆われていたとみられる▼大阪湾に着いた大陸からの使者らには「巨大な白亜のランドマーク」に見えたはず。石野さんの想像に世界遺産にふさわしいロマンを感じる。