「匿名でないと救えない」 母子守る信念貫く 「ゆりかご」開設、蓮田さん死去

熊本日日新聞 | 2020年10月26日 09:30

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完成した「こうのとりのゆりかご」の扉の前で記者会見する蓮田太二理事長=2007年5月1日、熊本市の慈恵病院

<評伝>
 匿名でないと救えない母子がいるー。親が育てられない子どもを匿名でも預かる「こうのとりのゆりかご」(赤ちゃんポスト)を2007年に開設して以来、慈恵病院(熊本市西区)理事長の蓮田太二さんの信念は最期までぶれなかった。

 06年秋に「ゆりかご」の設置構想を表明したが、直後から「安易な子捨てを助長する」との批判を浴び、当時の安倍晋三首相も「抵抗を感じる」と反対した。それでも設置に向けてまい進した。

 「事故がいつ起きても不思議ではない。結果的にゆりかごの存在が孤立出産を招いている」。17年9月、ゆりかごの運用状況を検証する熊本市の専門部会が、子どもの出自を知る権利が担保されていない点など課題を指摘した後も、匿名にこだわる姿勢は揺るがなかった。

 カトリックの修道会が運営していた慈恵病院と関わりを持ったのは1969年。当時勤務していた熊本大病院から派遣されたのがきっかけだった。シスターたちの献身的な医療に心を打たれ、病院にとどまることを決意。78年に理事長に就任し、98年には自ら受洗。04年に訪れたドイツで「赤ちゃんポスト」と出合う。

 父は国文学者の蓮田善明。小学生の頃、欲しいこまがなく、仕方なくベーゴマを買った蓮田さんに、父は「一度こうと決めたら、そうしなければならない」と諭したという。その言葉が「ゆりかご」実現を貫く強い原動力となった。

 晩年は糖尿病で人工透析を受けていたが、全国を講演で回り、病院のあっせんで養子縁組が成立した家族とも交流。数十人の親子に囲まれて記念写真に収まる蓮田さんの笑顔は誰よりも輝いていた。

 ゆりかごに預けられた子どもが成長し、訪ねてくることもあったという。「元気に、利発な子に育っていた」とうれしそうに語る一方で、音信が途絶えた子どもの行く末を心配していた。

 慈恵病院は昨年12月、匿名での出産を望む妊婦を受け入れる「内密出産」の運用を始めた。妊娠や出産に悩む母子をどう救うか。「ゆりかご」を通して、蓮田さんが社会に投げ掛けた宿題は重い。(林田賢一郎)