陣ノ内城、小西行長が築造か 支城造りの特徴一致 甲佐町調査 緑川流域支配全容明らかに

熊本日日新聞 | 2021年07月23日 13:10

北東側の上空から見た「陣ノ内城跡」の全景=甲佐町(同町教育委員会提供)
大規模な堀と土塁が良好な状態で残る「陣ノ内城跡」

 16世紀末、安土桃山時代の築造とされる熊本県甲佐町豊内の「陣ノ内城跡[じんのうちじょうあと]」は、大規模な堀や土塁を備えながらも、城主など詳細な点が不明で謎に包まれた城だった。しかし同町による調査で、肥後南部を統治した小西行長が城を築いた可能性が高く、緑川の水運を利用した拠点であったことなど全容が明らかになりつつある。今秋には国史跡に指定される見通しだ。(園田琢磨)

 陣ノ内城跡は広さ約7・8ヘクタール。緑川と流域野を見下ろす、同町役場近くの丘陵地の上にある。深さ5メートル、幅20メートルの堀が城跡の北側と東側に計約400メートル残り、その内側には高さ5メートルの土塁もある。国の文化審議会では、堀や土塁の良好な保存状態などが高く評価された。

 江戸時代に書かれた「拾集昔語」などの文献史料を根拠に、長く中世に一帯を支配していた阿蘇氏の館として伝えられてきた。しかし、堀の構造が直線的で、自然の地形を利用する中世のものと異なることから、築造時期を疑問視する声が以前からあった。

 このため、町は2008年度に発掘調査に着手。その結果、西側と南側にも堀を埋め戻した跡が見つかり、四方を堀に囲まれた方形の城跡の姿が浮かび上がってきた。土が踏み固められた跡などから南東と北西端に虎口(出入り口)があったとみられる。建物跡は見つかっておらず、未完成の城だった可能性もある。

 そこから見えてくるのは、阿蘇氏の動員力や技術をはるかに超えた規模で、近世初期の織豊系城郭の特徴を持つ姿だ。小西が築いた城郭と堀の幅や深さが似ていることなどから、同町教育委員会は「築城主は小西である可能性が極めて高い」と結論付けた。

 小西は1588年に肥後に入国すると、本拠となる宇土城や麦島城、支城の整備を始めた。宇土城は名和氏(八代や宇土などを支配した中世の豪族)の本城だった中世宇土城の近くに、麦島城は相良氏の肥後北上の拠点だった古麓城付近にあり、戦国期の領主や有力家臣団の拠点近くで築城や改修を進めたのが大きな特徴だ。

 肥後入国は国衆一揆の鎮圧後だったが不安定な状況が続いていた。このため、旧来の統治体制から新体制への移行を印象づける狙いがあったと考えられる。

 陣ノ内城も阿蘇氏家臣の本城だったとみられる松尾城の近くに築かれており、小西の支城造りと特徴が一致する。輸入陶磁器が出土していることからも、一帯が統治権力によって中世から利用されてきた土地だったことがうかがえるという。

 小西による築城のもう一つの特徴が、水陸交通の要衝である宇土城を起点とした支城網だ。宇土城から東方には隈庄と矢部の各支城が知られており、今回の調査によって陣ノ内城は両城の間の新たな支城と見なされた。陣ノ内城が建つ場所は緑川の川幅が広くなっていることから、川上から集積した物資の積み替えが行われていたと考えられる。

 支城はほかに北の赤井城、南の豊福城があり、いずれも川や海に近い。「海の司令官」とも評され、海や河川の利用に長[た]けた小西らしさと考えてもいいだろう。

 調査に携わった熊本大永青文庫研究センター長の稲葉継陽教授(日本中世・近世史)は「小西は、水運の拠点として重要な地域だったので、陣ノ内城を築くことで一帯を直接的に支配しようとしたのだろう。ほかの城郭と合わせ、小西による緑川流域の領国支配の全体像が見えてきた」と語る。

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