熊本城天守閣、再建から60年 山あり谷あり、感無量 

熊本日日新聞 | 2020年9月21日 09:42

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熊本地震からの復旧工事が進む熊本城天守閣と、加藤神社名誉宮司の湯田栄弘さん=10日午後、熊本市中央区の同神社(池田祐介)

 熊本城の天守閣が、今年で「60歳」の還暦を迎えた。熊本地震の傷はまだ癒えないが、加藤神社(熊本市中央区)の名誉宮司、湯田栄弘[しげひろ]さん(75)は、着々と復旧が進む天守閣をまぶしそうに見上げつぶやいた。「感無量です」 

 中学時代は遊び場だったという草むした城内。そこにどっしりと姿を現した天守閣を見て、高校1年生の湯田さんは「こういう風に腰を落ち着けて、こせこせせずに生きんといかん」と思った。

 日本が敗戦の窮乏から立ち上がり、高度成長期をひた走っていた1960年9月22日、熊本城天守閣は83年ぶりに再建された。以来、「熊本のシンボル」として国内外から多くの観光客を迎え入れた。熊本ににぎわいと潤いをもたらす一方、自然災害にも度々襲われた。「還暦」まで山あり谷あり。県民の思いとともに天守閣の歩みを振り返る。

「郷土の誇り」戦後高まる機運

 天守閣が再建される5年前の1955(昭和30)年10月24日。昼下がりの熊本市中心商店街で団扇[うちわ]太鼓を打ち鳴らし、「熊本城本丸を再建させましょう」と通行人に呼び掛ける男性2人がいた。

  旅館業を営む西嶋証八さん(当時53)と、朝鮮あめ製造業の足立善隆さん(当時45)。西嶋さんの孫が西嶋コーポレーション専務の西嶋公一さん(59)、足立さんの三男が熊本ソフトウェア社長の足立國功さん(75)=いずれも熊本市=だ。 善隆さんは「商売ができるのも清正公、熊本城のおかげ」と“再建運動”に励み、署名を集めていた。団扇太鼓は加藤清正が信仰した日蓮宗に由来。國功さんは幼いころ、太鼓を鳴らして街を歩く父の背中を追ったことを覚えている。「変わったことをやっているなと思ったよ。純粋に天守閣の再建を願っていたんだろうね」 西南戦争直前の1877(明治10)年に焼失した天守。ただ再建を望む市民らの声は、第2次大戦前からあったようだ。

  <この名城の復興は、以前より有識者及[および]熊本市民の高唱せる處[ところ]なりし>。陸軍技師の坂本新八は1931(昭和6)年、「建築雑誌」に天守閣の設計図を掲載し、そう記した。 さらに10年後、坂本の設計図について東京工業大の藤岡通夫が「推定による部分が非常に多かった」と指摘。宇土櫓[やぐら]から発見された史料を基に、新たに天守閣の立面図などを論文で発表した。藤岡はその後、実際に天守閣再建を担うことになる。

  戦前の熊本城本丸は陸軍第6師団の拠点。天守閣が司令部を見下ろす状況は軍の威信に関わるとされた。また市民が本丸に立ち入ることはできず、熊本市が観光目的で再建資金を調達することは困難だった。

  第2次大戦後の混乱が収まるにつれて、日本人は徐々に衣食住のゆとりを取り戻していく。昭和30年代に入ると、好景気を背景に郷土の誇りと心のよりどころを取り戻そうと、「わが町の城」再建への機運が盛り上がった。和歌山城(1958年)、名古屋城(59年)、小倉城(同)、小田原城(60年)、岩国城(62年)、島原城(64年)…。全国で城郭の“再建ラッシュ”が沸き起こった。

  熊本市でも56年3月、天守閣再建を公約に掲げた坂口主税[ちから]が第17代市長に当選。熊本城復元計画が本格的に動きだした。(飛松佐和子)