2008年5月11日(日)

 
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    社説  中山間地支援 農地保全、食の安全の視点も

 阿蘇の山里ではこの時季、「田植えはもう済ませたな」が住民たちのあいさつ代わりだ。水を張った棚田は、今年も米作りができる農家の喜びを映しだしているようにも見える。

 しかし、稲作ができるのも農道や水路の維持管理など、集落の共同作業が機能していればこそ。農業生産で不利な条件を抱える中山間地では、市場の厳しい価格競争もさることながら、過疎・高齢化が追い打ちとなり、担い手不足と農地の荒廃が進んでいる。

 こうした中山間地域の農家に現金を支給し、耕作放棄地の拡大を防ぐ「直接支払制度」(一期五年)がスタートして八年が経過した。二期目の中間年評価を迎えたが、農地保全や集落活動の活性化などで成果を挙げている実態が県内各地から報告された。

 同制度は、急傾斜の農地などを抱える地域に、集落協定などの条件を付けて交付金を支給。各農家は交付金の半分を出し合って、鳥獣被害の防止や農機具の共同利用による集団営農などの活動に五年間取り組む。二期目(二〇〇五~〇九年度)はさらに、集落のマスタープラン作成を付加するなど条件は厳しくなったが、将来に向けた足元の強化を求める内容にもなっている。

 県内では、全四十八市町村のうち三十六市町村が対象。協定集落は千三百八十を数え、交付面積は三万二千ヘクタールと北海道に次ぐ全国二位。〇七年度の交付総額は約二十三億円で、農家一戸当たり六万八千円。うち半分を拠出して共同での取り組みを続けている。

 中間年評価の自治体や集落アンケートでは、この制度がなかったら対象農地の二割弱、五千七百ヘクタールが耕作放棄地となっていただろうとの回答が寄せられた。言い換えれば、社会的、経済的に厳しい状況にあえぐ県内の中山間地にとって、営農継続への生命線の一つとなっている実態がうかがえる。

 兼業化や非農家の増加で、かつての共同体意識も薄れるなか、「集落での話し合いが活発化した」という声も多かった。新しいきずなの形成という点も成果として挙げられる。

 都市住民を招いての交流事業や、児童生徒らを対象にした野外活動、農業体験などの支援に取り組んでいる集落も少なくない。地域外への地道な働きかけは、この制度に対する国民の理解を深めてもらうためにも有意義だろう。同時に、交付金の使途について透明性を高めていく必要もある。

 世界的な農産物の高騰、食の安全に対する国民の関心が高まっている現今、安全・安心な国産農産物を安定的に消費者に届けることは喫緊の課題である。県土面積の七割以上を占める中山間地も重要な一翼を担っている。

 さらに水源涵養(かんよう)や景観保全などの面で果たす役割も大きい。小規模ではあるが、環境保全型農業として適地であり、安全な食に対する国民のニーズに呼応していく好機ではないか。

 ただ、限界集落など中山間地が抱える難題を解決するには、この制度だけでは物足りない。農地・水・環境保全に向けた支援制度も新設されたが、省庁を超えた幅広い対策が求められる。



    射程  伝わってくる平和への願い

 平和を願う気持ちに国境は関係ない。写真は静かにそう語りかけてきた。

 日中戦争時、中国・八路軍(人民解放軍の前身)の従軍カメラマンだった沙飛(さひ)さん(一九一二~五〇年)の写真展が熊本市民会館のロビーで開かれている。日中平和友好条約の締結三十周年を記念し日中友好協会などが企画した。全国を巡回中だ。

 沙飛さんは中国の報道写真家の草分けとされる。写真展では戦闘場面も一部あるが、ファインダーをのぞく目は、生きること、生きている者への慈愛にあふれる。

 従軍カメラマンとして撮影した写真の多くが中国側のプロパガンダに使われたことは否めない事実であろう。しかし、作品からはそれを超えた、平和を願うメッセージも伝わってくる。

 中でも、日中戦争さなかの一九四〇年に撮られた一枚の写真は、多くのことを考えさせる。八路軍の攻撃後、生き残った日本人の子どもを中国側から日本側に送り届ける際に撮られたものだ。

 籠(かご)に乗せられた子どもの無垢(むく)な顔。その頭をなでる八路軍の聶栄(じょうえい)臻(しん)将軍。戦争の最前線、殺してしまう選択も十分あり得ただろう。

 当時四歳だった子どもは今も健在。宮崎県都城市在住の栫(かこい)美穂子さん(71)である。

 栫さんは一九八〇年に聶将軍と再会。同市と聶将軍の出身地中国・重慶市江津区は九九年、友好交流都市の提携を結んだ。今後も世代を超えて語り継がれていくことを切に願う。同会館での写真展は十二日まで、入場無料。(荒木)



    新生面  母の日

 ユニークな音楽活動「うたごえ運動」は今でこそ下火だが、激動の昭和のうねりと重なった社会運動でもあった。声楽家・関鑑子(あきこ)の提唱で歩み始めたのが一九四八(昭和二十三)年。今年で六十歳になった▼運動の背景には、戦後の平和と民主主義、幸福を求める大衆の要求や行動の高まりがあった。最盛期の六〇年代には名歌が次々に登場。反核運動で歌われた『原爆を許すまじ』は強い怒りを感じさせる。沖縄返還闘争では『沖縄を返せ』、三井三池争議や安保闘争では『がんばろう』が空に響き渡った▼日米安保条約に猛反対、国会に押し寄せたデモ隊がこぶしを突き上げて『がんばろう』を大合唱するシーンは「一枚の楽譜が国会を取り巻いた」と形容された。これらは当時はやった「歌声喫茶」でもよく耳にした。現在のカラオケ喫茶とは違って、みんなで合唱する、うたごえ運動スタイルだった▼愛唱されたのは闘争歌だけではない。『かあさんの歌』が懐かしい。「かあさんが 夜なべをして 手袋編んでくれた…」。母の情愛が染みる。一度も「かあさん」と呼ばなかったという窪田聡が作詞・作曲した恩返しの歌だ。大学進学を勧める母親に反抗、家出。しかし、息子の身を案じる優しさは少しも変わらなかった…▼母と子の縁(えにし)の深さを思う。一方で、きずなを断つ悲劇に心が曇る。「こうのとりのゆりかご」開設から一年。悩み抜いた母親が赤ちゃんをそっと手放す姿が後を絶たない。『かあさんの歌』を口ずさむ、きょう「母の日」。



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